ラブドールが/と見る夢──デカルト的雑想(3)

「ロボットにも情念をもたせうる」。
渡仲氏のこの一文を読んで、ブレードランナーデッカードハリソン・フォード)とレプリカント・レイチェル(ショーン・ヤング)の「密会=性愛」のシーンを想起した(ベタだが)。
この「感情移入[エンパシー]テスト」(レプリカント識別検査)と「母の思い出」とレプリカントによる人殺しから始まる映画のことについては、いま驚嘆と羨望(その内容と叙述の形式に対して)と郷愁(その語り口に対して)とともに読みついでいる加藤幹郎さんの『『ブレードランナー』論序説』をちゃんと終えて、その強烈な磁場からたとえ一歩でも抜け出すことができたときにあらためて考えてみることにして(その日は来るか?)、ここでは「本題」へと急ぐ。
その前にひとつだけ。「レプリカントであるということは人間になろうとする意志である」(127頁)。


     ※
エロコト』という雑誌(『ソトコト』増刊号)が創刊された。
ロハスピープルのための快適性生活マガジン」。編集長は坂本龍一
その坂本龍一による巻頭の「エロコト宣言」が力がこもったものだったので、抜き書きしておく。


《エロい女は、その存在そのものがエコである。
 この惑星に生命が誕生して38億年。それは現在まで一度も途切れることなく続いてきた。その奇跡のような生命の本質とは何か? それは「食」と「性」である。言い換えれば「個体維持」と「種の保存」だ。このふたつによって生命は維持されてきたのだ。
 昨今、日本社会にもすっかりエコ=環境意識なるものが定着してきた感がある。けっこうなことである。本屋にはエコ雑誌が溢れ、そこには「食」の情報が豊富である。しかしちょっと待てよ。生命のもう一つの本質である「性」がちっとも扱われていないではないか。これは文字どおり不公平だ。そこでわれわれは、エロをエコの観点から考察すべく、一つの雑誌を作りたいと思った。
 とりあえず強引に、「エロい女はエコである」という直感に導かれて、われわれはここに雑誌『エロコト』を世に問う。》


エロい女は、その存在そのものがエコである?
ここでいう「エロい女」は性としての女性(セクシーな)のことでもジェンダーとしての女性のことでもなくて、「その存在そのものがエコである」といわれる「その存在」のことなんだろうな。
でも、そんなふうにむつかしく考えずに、この雑誌は「エロい女」が好きな男たちがよってたかって造ったもので、同好の士が買って読んで楽しめばそれでいいのだくらいに軽く考えておけばいい。
一読して、惜しい、あと一歩、いやあと一枚脱げばもっとつきぬけられたのにと思った。
現代思想系の妙な切り口がいっさいないのは好ましいが、読む前からだいだい想像がつく記事とグラビアが満載されていて、なにかあと一ひねり足りないという印象がぬぐえない。
おまえがいう「あと一歩、あと一枚、あと一ひねり」ってなんだよ、と問われても困る。
こちらは身銭を切って購読している気楽な立場なのだから、考えるのはそちらの仕事でしょ、としか言えない。
日本舞踊ってこんなにエロいよ、みたいな記事が読みたい。
そんな読書アンケートへの回答のようなことは言えるかもしれないが、そういう問題ではない。
それにしても、惜しい。
「性」や「エロ」について語る「新しいことば」がまだ見つかっていないのだと思う。
エロコト』創刊の意味は、たぶんそういうところにある。


どの記事もけっこう面白いけれど、なかでも編集長と中沢新一の対談が面白い。
そこで中沢が「セックスにエロスを取り戻す。現実を取り戻す」という『エロコト』創刊の意図に対してエールをおくっている。
対談の最後に、やや「現代思想系」のやりとりが出てくる。
これはすごく大切なことで、たぶんこのあたりから「新しいことば」が生まれてくるに違いないと思う。


中沢 死の領域とのコミュニケーションを断つでしょう。そうすると人間同士のコミュニケーションができなくなるんですよ。人間同士って一対一でコミュニケーションしているように見えますけれど、実はそこには必ず第三者が存在するんです。それは実は死者なんですよ。生きている人間同士がコミュニケーションするには死者が必要なんですけど、これを見えないようにしちゃう。そうすると実はコミュニケーションが不能になってしまうんです。
坂本 コミュニケーションって感情の贈与みたいなものでしょう。
中沢 そうですね。セックスというのは言葉でコミュニケーションしているところから一歩踏み込むわけでしょう。そうすると第三者の存在ってものが、すごく大きくなってくる。死の領域がね。ところがその領域とのコミュニケーションの訓練ができていないから、人と人とのコミュニケーションができなくなっている。だから死に慣れ親しむというのがエロス文化を蘇らせる原点じゃないかと思います。


以上は長い前置きで、これからがほんの短い「本題」。
「やわらかくてかわいくて気持いい宝物。」という記事がとても気に入った(というより、気になった)。
「あと一歩、あと一枚、あと一ひねり」はこのあたり(工学的性愛論?)から生まれてくるだろうという気がする。
これは、オリエント工場という「特殊ボディ専門メーカー」を取材したものだ(取材・文 松井亜芸子)。


《今はまだラブドールの体にばかり執着しているあなたも、そのうちきっと心の中に違った感情が芽生えたことに気づくでしょう。それはいわゆる人形愛というものかもしれませんが、実際は妻や恋人を愛する気持ちと変わらないはずです。あなたが望むなら、ラブドールは喜んで毎晩あなたの帰りを待ちます。かわいい洋服を買ってくれて、たまにはどこかへ連れ出してくれて、つらかったこともうれしかったこともすべて話してくれて、毎朝毎晩愛でてくれるなら、ラブドールは10年でも20年でも、あなたと添い遂げる覚悟です。》


《嫁ぎ先の旦那さまがあまりハードに可愛がってくださって、例えばシリコンの肌が破れてしまったりパーツが破損してしまったりすると、私たちは一時里帰りをして修理をしてもらいます。実はこの会社のラブドールの顔はすべてたったひとりの職人さんがつくっているのです。その職人によれば、旦那さまに可愛がられたラブドールほど、表情が柔和になっていくというのです。ラブドールが旦那さまのうつ病不眠症を治したという話も聞きました。ラブドールがただの性処理の道具ではないことが、お分りいただけますね。》