究極の心身問題──デカルト的雑想(2)

「ロボットにも情念をもたせうる」。
デカルトの思考に立脚したこの渡仲幸利氏の省察をテコに、つぎに取りあげようと思っていたのは、性愛をめぐる機械・器具(プレジャー・マシンとでも?)のことだった。
文章は大筋を書いているので、あとは修復整理を施してこのブログにアップするだけなのだが、そこでちょっと困ったことが起きてしまった。


栗山光司さんのブログで、茂木健一郎さんの講演や『風の旅人』編集長の佐伯剛さんのブログの記事の話題とともに、「ロボットにも情念をもたせうる」を取りあげていただいた。そこで栗山さんが次のように書いている。


《誰かと喋っていて、時間の経つのを忘れる、そんな刻を過ごした経験は誰だってあるでしょう。
 でも、今だにコンピュータ(ロボット)にはムリなのです。悩める鉄腕アトムは誕生していないのです。
 いつか、そうなるでしょうか、そうならないとも限らない、キモは「感情」なのでしょう。生成する感情が個々の人間の拠り所なのなら、もっと、もっと、このことについて考えたいですね、
 考えるというより、感じることでしょうが、茂木さんがこの講演で、岡本太郎が乾杯をしたときに、「これを飲んだら死ぬと思え! 乾杯」とやらかした有名なエピソードを紹介していましたが、ロボット(コンピュータ)は死と対峙しない回路でシステムを構築しているのでしょうね、もし、会話の出来るロボットを発明するとしたら、「死」と接続する回路が絶対必要なものだと思ってしまう。》


困ったことというのは、これから私がアップしようと思っていた話題があまりに卑近、というか尾籠、というか下ネタ風で、こういう文脈にうまくのらないなあ、ということがまず一つ。
それから、感情をもったロボット、会話ができるロボットを製作することは、とてつもなく難しいことだとは思うけれど、原理的には(たぶん)可能で、西欧17世紀の科学革命、19世紀から20世紀にかけての生物学や物理学の革命に次ぐ「第三次」科学革命(形而上学革命?)によって達成できるだろう、と私は考えている(期待している)こと。
そして、そのとき誕生するだろうロボットこそ「デカルト的機械」の完成した姿(フーリエ的プレジャー・マシンとでも?)であり、自他関係や心身関係の問題以上に難解なヒト・ロボット関係(ヒトとロボットの共存在とかコミュニケーション=会話の作法の問題といってもいいし、究極の心身問題だといってもいい)の問題を解く鍵が、フーリエ的に拡張された性愛の問題であって、それはエロス・タナトスセクシャリティスピリチュアリティといってもいい)と並び称されるように、必ずや死の問題(克服であれ制御であれ)もしくは不死性の問題を伏在させているに違いない、と考えていること。


ひとつだけ注釈をいれておく。
たとえば茂木さんのいう「クオリア」はたぶんデカルト的な意味での精神の問題で、それは無際限に分割可能な物質的事象の全体として、物的世界の外に立ち現われるもののことだ。
たしかベルクソンは、物質の運動(周波数で表現される)を記憶(知覚を覆う思い出としてのそれではなくて、多数の瞬間を収縮するはたらきとしての)によって凝縮されたものが感覚の質(色のクオリア)だといった趣旨のことを書いていた。
大雑把にいってしまうと、ベルクソンの「記憶」のはたらき(収縮)はデカルトの「精神」のはたらき(外へ、全体を)と同義で、だから、感情をもったロボットや会話ができるロボットは製作できても、クオリアをもったロボットは原理的に製作できない。
クオリアは精神(デカルト的な意味での)のうちに立ち現われるものなのであって、物質世界の内部に生じるものではないからだ(たぶん)。
感情(情念)をもったロボットと、クオリア(や自発性や意志、そして時間?)をもったヒト。
この二つの存在のあいだに成り立つ関係。それをいま「究極の心身問題」と書いた。
それがどういう様相を帯びた問題なのかは、ちょっと想像できない。
ロボットとヒトは合体しているかもしれないし、ヒト(精神としての)自体がすっかり変わっているかもしれない。
たとえば「マザー」によって管理された、マザーの無数の小枝としての「わたし」とか。
それを不気味だとか恐ろしいとか思うのは今のヒトであって、その時代のヒトはそんなことはあたりまえだと思っているかもしれない。
我思う、ゆえに我あり」は、いつの時代であっても(もしかすると、間違って「精神」をもっているとヒトの欺きによって思わされたロボットにとっても)成り立つのだから。


でも、困ったことというのは、そういうSFじみたことではない。
栗山さんの文章が、私が書こう(書きながら考えよう)と思っていたことをずいぶん先取りしていて、だから順を追って書くのが(まして、あまりに卑近、というか尾籠、というか下ネタ風の話題から始めるのが)面倒くさくなってしまったし、どんどん先走った妄想がふくらんでしまった。
これが困ったことの実体で、だから、昨日の話の続きは明日以降に持ち越しする。