ロボットにも情念をもたせうるということ──デカルト的雑想(1)

渡仲幸利氏が『新しいデカルト』の「情念論」をとりあげた章で、「懐疑とは、脱ぐということだ。そして最後に「わたし」の底力が立ち現れる」(50頁)と書いている。
以下はきわめて真面目な話なのだが、脱ぐとはいうまでもなく衣服を脱いで裸になることだ。
そして裸になったときに立ち現れる「底力」とは──「事物や肉体にじかに問いかけるあたりまえの精神の働き」(19頁)であり、「生きようとする能力とでも名づけたくなる働き」(21頁)であり、「外から規定することへの反発性そのものであり、つまり、精神の働きというものの自発性」(22頁)のことであり、端的にいって「わたし」そのものである(25頁)と同時に、そして何よりも──性愛への欲望のことである。
これはもう無茶苦茶なことを書いている。
だって、「わたし」とは「精神」のことであり、「精神」は「身体」と区別される実体であり、性愛への欲望とは他者の「身体」への欲望にほかならないのだから。
いや、そうではない。
「わたし」が「精神」である(「身体」ではない)というのは『省察』の二日目の話で、懐疑の六日目にはめでたく心身合一した「わたし」が再びみいだされるのだから。
あたかも、幽体離脱から回帰するように?
いや、もしそうだとしても、性愛への欲望が他者の「身体」への欲望であるとは言いすぎではないか。
他者の「精神」との交わりへの欲望を欠いた性愛など、あり得ないのではないか。
ネクロフィリアは別として?
いや、ここで屍姦症のことを書きたかったわけではない。
もっとも、死者(の屍体)との感情移入は成り立つか、もっと端的に、レプリカントへの感情移入あるいは人形愛は性愛への欲望と同質か、などと言えば多少は近づいていくのかもしれないが。


渡仲氏は、「精神の治療にたずさわる者が、フロイトユングからよりも、まずデカルトから借りてくる必要のあった理論」をめぐって、次のように書いている。


フロイトは、精神分析のために、患者の思うままにならない精神、すなわち「無意識」を仮定した。デカルトにいわせれば、思うようにならないものは、外界であり物体と肉体の世界なのだ。つまり、「無意識」とは、外界なのだ。
 こう考えると、ユングのあの神秘的な図式も、じつに平明に理解されよう。「無意識」の海の水面から、ひとりひとりの意識がともに突き出しているさまは、とりたてていうまでもないこの世のさまといえるだろう。ただし、ひとりひとりの精神の最高の働きといえるものさえも、ひとりひとりの肉体に結合され、またそのことによって、物質世界という大海の運動にむすびついていること、このことは、精神の治療にたずさわる者が、フロイトユングからよりも、まずデカルトから借りてくる必要のあった理論だろう。そしてわたしたちは、ひとりひとりが、みずからの精神の医者でなくてはならないのだ。
 いつも大事な場面で足がすくむ。それは、自分の知らない自分の怖がりの心が、そうなるように命じているからではない。足がすくんだ身体状態から、精神が怖さという情念を受け取ったにすぎない。
 すると、デカルトのすすめる療法はこうなる。怖がるな、怖がるな、と自分の心に向かって念じていても、なんにもならない。すべきこと、それは、外界の諸力を介して行なうことである。わたしたちには、そのために肉体がある。スポーツ選手ならみんな承知している。大事な場面でなすべき行為を、くりかえしくりかえし、じっさいに行ない、そうやって数えきれないほどの反復の訓練をすること。これが、けっきょく、わたしたちの精神を救ってくれるのである。情念の原因を心の奥にさぐるほど、へたくそな生き方はないわけである。》(54-55頁)


物体(肉体)のことは物の秩序へ。つまり、情念のことは脳内の分子運動へ。
そして、精神のことは精神へ。これが、デカルトの理論である。


デカルトは、こうして、精神を自分に確保しておいて、情念を、その本来の持ち場へ送りかえした。情念は、物の秩序へと投げこまれたのである。これはどういうことかというと、ロボットにも情念をもたせうるということである。》(56頁)


──ようやく本題にたどりついた。