性愛工学──デカルト的雑想(4)

もう少しだけこの話題を続ける。
この話題というのは、『新しいデカルト』(渡仲幸利)の「情念論」をとりあげた個所に出てくる文章──「デカルトは、こうして、精神を自分に確保しておいて、情念を、その本来の持ち場へ送りかえした。情念は、物の秩序へと投げこまれたのである。これはどういうことかというと、ロボットにも情念をもたせうるということである」──に触発されて始まったものだ。
この「ロボットにも情念をもたせうる」から、ソフトビニールやウレタンではなくシリコン素材を使った人工皮膚(「ラブドール」と名づけられたロボット、顧客のイメージ世界の中で動くロボット、あるいは目をあけたまま眠るロボット、なかには目をつむっているのもある)への感情移入の問題へと話題は微妙にずれていき、そこからさらに「性愛工学」へと逸脱していった。
なぜなら、そこ(性愛工学)で取りざたされるのは感情(情念)ではなく、皮膚にまつわる感覚にほかならないのだから。


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ここで一つ、ミシェル・ウエルベック素粒子』からの引用を挿入しておく。ただし、この文章は宙に浮いていて、本文に接続されない。

《彼のプロジェクトに対して浴びせられた最初の非難の一つは、人間のアイデンティティを作り上げる重大要素である男女の差異をなくしてしまうという点にあった。これに対しハブゼジャックは、いかなるものであれこれまでの人類の特徴をまた繰り返すことは問題にならない、そうではなく理性的な新しい種を創造しなければならないのであり、生殖方法としてのセクシュアリティの終焉は性的快楽の終わりを意味しないどころか、まさにその逆なのだと返答した。ちょうど、胚形成の際クラウゼ小体の生成を引き起こす遺伝子コードのシーケンスが特定されたところだった。人類の現状では、これらの小体はクリトリスおよび亀頭の表面に貧しく分布しているのみである。しかし将来、それを皮膚の全体にくまなく行き渡らせることがいくらでも可能になるだろう──そうすれば、快感のエコノミーにおいて、エロチックな新しい感覚、これまで想像もつかなかったような感覚がもたらされるに違いないとハブゼジャックは主張したのだった。》(野崎歓訳)


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さて、ラブドールに注目した(惹かれた)のは、そこに「究極のエロ」のひとつのかたちが(潜在的にではあれ)表現されているのではないかと直感したからだ。
このあたりのことをつきつめてみるためには、かつて読み込んだ金塚貞文氏のオナニズム三部作や人工身体論を読み直さないといけないと思うが、肝腎の著書が手元にないので、これは後日の宿題にしておく。
ちょうど今日読み終えたばかりの篠原資明著『ベルクソン──〈あいだ〉の哲学の視点から』(岩波新書)に、人間が機械へと向かう本質的傾向を誰よりもベルクソンが跡づけえたように思われる、そしてベルクソンに心酔していた稲垣足穂もそのところを察知していたようだ云々、と書いてあった(109頁)。
篠原氏はつづけて、足穂の芸術宣言でもある「われらの神仙道」からの一文を引用している。


《地上界に現下さしせまった生命の窮路をひらくことについてわれらが論じたさきほどの一点、即ち機械の原理によってうごく機械(云いかえて空間の原理によってこしらえて行く空間)と、機械をこしらえた生命によってうごかされる機械(云いかえて空間性をも抽象された時間そのものによってうごかされる空間)と、この二つをかみわけ、われらがその後者を云おうとしているのだけはお間ちがえないようにおたのみする。》


この後につづく篠原氏の文章。


《要するに、「機械の下におしつぶされようとする生命をすすんで機械のなかにぶちこんではどうだろうか」(同前)というのだ。そこにうかがえるのは、ベルクソン的な生命論でもって、旧来の機械論とは違う新たな機械主義を展開しようとする姿勢である。機械めいた天体が出没する足穂的物語の数々は、そのような姿勢と結びついて生みだされたといってよい。さらに、そのような姿勢そのものは、文字どおり、時代の動きともなった。典型的な例が映画だろう。》(110頁)


このあとにつづく「ドゥルーズの映画論」や「未来派の写真」をめぐる文章はとても面白いものだったのだが、本題とは直接の関係がないのでこのあたりでやめる。
質感、たとえばラブドールがもたらす皮膚の質感のようなものを伴う映画といった未来の「機械」を想定するなら本題への接続ははたせるだろうが、ここでは足穂がいう「生命をすすんで機械のなかにぶちこむ」こと、篠原氏の口吻を真似るなら機械と生命の〈あいだ〉に立ち上がるものがラブドールであり、性愛工学であるとだけ書き残しておこう。


もう一つ、ラブドールが面白いのは、それがシリコン素材でできていることだ。
同じく『ベルクソン』に、ドゥルーズ(『フーコー』)が炭素に取ってかわるシリコンの力に注目していたのに対して、ベルクソンは「炭素的」であるように思われるかもしれない云々、という文章が出てくる(173頁)。
そこで話題になっているのは、もちろんラブドール(シリコンでできた人工皮膚、それもまた「機械」である)のことではなく、電子メディアという「機械系」のことなのだが、ここではこれ以上深入りせず、ただそこにデカルトベルクソンの「接点」の手がかりが示されていることだけでよしとしておく。
森岡正博さんの『意識通信』の向こうをはって、電子メディア時代における感情通信、さらには質感通信とか性感通信の思考実験をやってみると面白いと思うが、それはまた別の機会、たとえばいま手元にある松浦寿輝氏の『官能の哲学』や『口唇論』、植島啓司氏の『性愛奥義』などを読み込んでからのことにしよう。


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以下、符牒めいた覚書を書き残しておく。
ベルクソンは『道徳と宗教の二源泉』で「機械系」と「神秘系」を区分した。
(機械系=情報系=シリコン的、神秘系=生命系=炭素的。前者がデカルトの物質に、後者が精神に該当する。ベルクソン的二元論とデカルト的二元論の出会い。)
篠原氏の紹介によると、ベルクソンは機械系と神秘系のあいだに歴史を駆りたてる法則のようなものを見てとった。
一方が力をもってほとんど狂乱状態まで突きすすむと、潜伏していた他方が機会をみてこれに取ってかわる。というか、一方が他方を呼びもとめる。
他方は新たに取ってかわるとき、それまでに得られたものからそれなりの益を得る。
具体的には、まず神秘系が西洋中世にひとつの狂乱を招きよせた。
禁欲生活のことだ。アッシジのフランチェスコの清貧と無所有の実践、修道院の生活を思えばいい。
しかし禁欲も極端にまで進むと個人も社会も壊滅させかねない。
そこで16世紀あたり(デカルトの時代!)から正反対の方向、つまり物質面の向上を求める機械系へ転換する。
やがて機械系もとどまることを知らない渇望という狂乱状態へ突きすすむ。
機械系が神秘系(「神の愛に値するべく、人々への分けへだてのない愛を実践し、広めようとする道」164頁)を招きもとめている…。
大雑把な「要約」だが、ここを読んで私はとても興奮した(『二源泉』は昔かけあしで読んだはずなのにほとんど覚えていなかった、情けない)。
エロコト』のラブドールの記事を読んで直感したことがようやく言葉になった。
丁寧に文章化するのはあきらめて、スパークした言葉を拾っておく。


「究極のエロ」のかたちとは禁欲だ。
ラブドールは機械系の「死体」だ。そしてラブドールを愛するということは神秘系の「死者」を創造することだ。
死者との性愛。もしくは工学的な臨死体験
いや、機械系と神秘系の〈あいだ〉にこそ性愛工学の精華たる芸術品、まだ見ぬラブドールは立ち上がる。
そして〈あいだ〉とは、坂部恵(『モデルニテ・バロック』)が「Betweenness-Encounter」と訳した「あわい」のことだ。
新しい機械(デカルト・マシン)が必要だ。修道院という機械が。
「主体性が《機械に入ること》──かつて《宗教に入ること(修道者になること)》と言ったように」(フェリックス・ガタリ『分裂分析的地図作成法』11頁)。
神のラブドール(電子メディアによって造形される?)に祈ること。
神の花嫁として「神の声」(電子メディアによってもたらされる?)に失神すること。
究極の禁欲生活、すなわち人類と神々との〈あいだ〉で失神すること。
エロコト』の編集長は書いた。
「その奇跡のような生命の本質とは何か? それは「食」と「性」である。言い換えれば「個体維持」と「種の保存」だ。このふたつによって生命は維持されてきたのだ。」
しかし、彼は生命の第三の本質を忘れている。
それは「種の創造」だ。食と性、そして「愛」。
ベルクソンは「神を創造エネルギーそのものとして定義し、このエネルギーが愛にほかならない」と考えた(『ベルクソン』137頁)。
エラン・ダムールによる新たな種(神秘家)の創造。
「神秘家とは、生物としては人類でありながら、人類種を超えた存在、個人でひとつの新たな種を体現する存在であるだろう」(136頁)。
「神秘家とは、人が人でありながら人とは異質になりゆくありようをさすのではないだろうか。」(155頁)
「神秘家という個性とまじわることで、神もまた、それまでにない新たな神へと生成するのである。」(157-158頁)