一期一会の科学──郡司ペギオ−幸夫『生きていることの科学』

最初に浮かんだのが「二人称の科学」というタイトルだった。
この書物は会話体で構成されているし、その内容からみてもこれがぴったりだと思ってずっと頭の中で温めていたら、『生命と現実──木村敏との対話』(河出書房新社)に収められた檜垣立哉氏の木村敏論で「二人称の知」という言葉が使われているのを見つけてしまった。
なかなか見事な切れ味の論考だったので、これに敬意を表して「二人称の科学」を採用することは断念した。
なんの話かというと、本書『生きていることの科学──生命・意識のマテリアル』(講談社現代新書)を一言に「縮約」するとどういう言葉がふさわしいか、もしこの本に対する書評を書くとすればどういうタイトルがふさわしいかと考えていたわけだ。
どだい隅々まで理解することなどできないなら、まして短い文章で「要約」することなどできないなら、理解できないなりになんとか「けり」をつけておきたいと思って、読み終えてから一月あまり悶々としていた。


「二人称の科学」というタイトルが本書の内容からみてもぴったりだと思った、と上に書いた。
じゃあその「内容」ってなんなんだい、ちゃんと端的に説明してごらん。
そう言われても、読了直後ならまだしも、いまとなっては曖昧朦朧としてお手上げです、としか答えられない。
まして難解で知られる「ペンギン男」の書いた本、そんな芸当がやすやすとできるわけがない。
それでも「手がかり」はある。いま前後の脈絡を抜きにして該当箇所(これは前[2006-08-24]にも引用した)だけを抜き出しておく。


《一人称としての、いまここにあるわたしの痛みは、わたしにおいて疑う余地がなく、論じる必要がない。三人称の痛みという、わたしと完全に切れた痛み概念は存在しない。痛みの問題は、常に、わたしが対峙する他者の痛みの問題であり、わたしの痛みを他者に伝える際の問題である。だからそれは、わたしの痛みを理解し、表現する、という問題として成立する痛みであり、二人称の痛みの起源としてのみ、成立するんだと思う。》(149頁)


ここに出てくる「痛み」はいろんな言葉に置き換えることができる。
「表現」という語彙も、「現実」もしくは表現や認識の「外部」との対比(6頁)において本書のキーワードをなす。
これらのことを「応用」するなら、たとえば「二人称の科学」とは「外部=現実」(仮想世界対現実世界という二項の片割れとしてのそれではない「存在する現実世界」[146頁])の「表現」そのものであって、それは終わりなき会話を通じてのみ成し遂げられる、などということができるかもしれない。
(それ=現実をどう認識し表現するかが科学の問題なのではなく、その営みそのものがそれ=現実の表現そのものであるような科学こそが二人称の科学である? すなわち、会話とはミクロとマクロ、部分と全体をつなぐ「観測」である?)
ここでいう「会話」は、自問自答とは似て非なるものだ。
自問自答の堂々巡りは果てしないが、それは実は最初から終わっている(果てしない=無際限、終わりなき=無限、などと考えてもいい?)。
自問自答ならぬ会話には媒介が必要である。
郡司と幸夫の間に「ペギオ」というミドルネームがはさまれて、一人の人間のうちで会話(二人称の科学)が成り立つように。
ちなみに本書はPとYとの会話で構成されている。
Pはペンギン男、Yは幸夫で、そこには常に沈黙(沈思黙考)しているGが立ち会っている。
なぜ媒介が必要なのか。分離し区分するためである。
本書のテーマでいえば「もの」と「こころ」の分離である。
「わたし」における能動性と受動性、「わたし」における自己と他者、などと謎めかして言っておいてもいい。
では、なぜそうした二元論を打ち立てる必要があるのか。
対象(たとえば物質世界)が混乱しているからである。
あるいは分離し区分しないかぎり「対象」が立ち上がってこないからである。
そうしないと生物、少なくとも動物は生きられない。
それだけではない。分離区分が往路だとしたら、その復路がなければならない。
そうでなければ、「生きているもの」は把握できても「生きていること」へは到達できない。
なんのための二元論だったかというと、混乱した一元論の外へ出るためであって、「モノそれ自体」のリアリティを放棄するためではない。
だから媒介は「区別を創り出しそれを無効にする力を潜在させるもの」(124頁)でなければいけない。
そうした媒介者のことを本書は「マテリアル」と呼ぶ。
「一方で認識とその外部の分離を可能とし、他方その区別を無効にするがゆえに両者を媒介できる。この二つが、マテリアルにおいてつながっている。わたしが示すマテリアルとは、そういった概念であり、そのような逆説を通して、マテリアルが構成されることになります。」(6頁)
(後の覚えのために書いておくと、デカルト的二元論とベルクソン的二元論があって、ともに究極的には一元論と言えば言えるものになるのだが、前者は現代科学より前の、というより現代科学を生み出し今なお生み出しつつある形而上学、後者は現代科学より後、というかその方法と成果の批判的受容の上に成り立ちこれからも成り立っていくだろう形而上学という関係にある。)


     ※
「二人称の科学」を採用することは断念したといいながら、つい立ち入ってしまった。続きを急ぐ。
で、「二人称の科学」のかわりにひねりだしたのが「一期一会の科学」というものだった。
いや、ひねりださなくとも、ちゃんと本書にその言葉が出てくる。
郡司氏は漫画家・根本敬のエッセイ「一期一会」を紹介している。


根本敬さんは、仕事の都合上現実の死体を見ることになって、警察に依頼したそうなんだ。もちろん、いつでもあるわけじゃないんで、待つことになる。ある日、突然電話がかかってくる。行ってみると、司法解剖が終わって、皮膚が縫合された遺体が置かれている。まぎれもない物体となって。
 で、彼は警察の人に聞いてみたそうだ。この方はどういう経緯でなくなって、いまここにおられるんですかってね。警察の人が言うには、トラックの長距離輸送の運転手で、山道で、おそらくちょっと用をたそうとして、足を滑らせ、そのまま崖に落ちて亡くなったということだった。このとき、根本さんは、こう思ったそうだよ。あ、これこそが一期一会だ、と。「私は、彼と出会うために生まれてきて、ここにやってきた。彼もまた、私とここでこの瞬間出会うために、生まれてきて、亡くなって、やってきた。これが一期一会だ」ってね。すごい話だよ。》(269頁)


郡司氏は「死んだ人とわたしとの出会い、においてこそ、一期一会の存在が理解される」(270頁)と書いている。


《遺体と死体って区別するように、生前をよく知っている人なら、その動かなくなった体は単なる死体じゃなくて、悲しみと生前を身に纏った、「遺体」だよね。それは、死んでしまったがゆえに、わたしのイメージする世界の住人になっている。遺体は、観測者の側にいるんだよ。では、まったく関係のない人の「死体」は、どうか。(略)
 まったく知らない人の死体に向き合うとき、それは本質的には死体で、モノに近いなにかのはずだよね。死体である限り、わたしが彼の人生を理解したりすることはできない。それは遺体ではなく、死体として出会うことの定義でもある。にもかかわらず、死体であることと矛盾する、彼のここに至るまでの来歴を想像することはでき、いや、そうしてしまう。それはモノの移動や運動を想像するように、できるはずだった。だけど、そのような来歴の想像は、彼が生きて崖から滑り落ち、ここにくるまでのすべてを想起させたというわけだよね。遺体であることと、死体であることとは矛盾する。でもここでは、死体であることと、遺体であろうとすることが共立して、そこに一期一会の存在が感得されている。それは、マテリアルの存在と同じものなんだ。》(270-271頁)


あとがきがない本書の最後の文章である。
語っているのはY、聞いているのはP、最後まで沈黙しているのはG。
ここに、死体と遺体を区別しかつその区別を無効にする媒介、つまり死者が立ち上がっている、あの「二人称の科学」すなわち「終わりなき会話」を成り立たせている媒介者が、などと言うことができるだろうか。
あるいは、一期一会の出会いのうちに究極の会話(二人称の科学)、すなわち死者とのコミュニケーションが成り立っている、などと。
個人的な注記。内田樹『死と身体』を再読すること。エミール・ブレイユ『初期ストア哲学における非物体的なものの理論』を読むこと。


     ※
物質である脳にいかにして心が宿るのか。
ここでいう「心」を「クオリア(質感)に満ちた意識」や「魂」や「霊性」や「存在感覚(存在へのセンス・オブ・ワンダー)」等々におきかえ、また「宿る」を「生まれる」や「随伴する」や「幽閉される」等々といいかえてみても問題の本質、いや「手触り感」(64頁)は変わらない。
脳を「物質」というとき、ひとは「三人称」的に、他人事として脳を見ている。
いや、脳を第三者的に観察し、感覚的に見たり触れたりするのは解剖学者か脳科学者か脳外科医であって、普通の人は脳を直接見ることなどめったにない。
まして自分の脳に触れることはまずない。
だから、物質としての脳については「それ」もしくは「あれ」としかいいようがない。
脳のはたらきがもたらすものを「心」としてとらえるとき、とりわけ「物質である(にすぎない)脳にいかにして心が宿るのか」という問いをたてるとき、ひとは「一人称」的に、自らが経験する「私の心」を念頭においている。
このいまここにある具体的で生々しく切実な「生きていること」にまつわる感覚が、これとは似ても似つかぬ灰色の脳細胞のうちにいかにして宿るのかというわけだ。
ここにある乖離、つまり三人称もしくは非人称の抽象と一人称の感覚との分離に折り合いをつけるためには、「物質」の概念を精錬しなければならない。
そこに立ち現れるのが二人称的な一期一会の存在である。
それは「存在する現実世界」のことでもある。つまり、抽象×感覚=現実。
個人的な注記。抽象と感覚の二元論とその「克服」。デカルト的克服とベルクソン的克服。観測過程=懐疑(255頁)。