魂のかたち──「四人称世界」をめぐって(その1)

最近、死をめぐる話題が私の脳髄をとりまいている。
死の問題というよりは、不死性や死者の記憶(遺族の中に生きている死者の記憶のことではなく、文字通りの意味での死者がもつ記憶)の問題というべきかもしれない。


エロコト』の対談で、中沢新一は「人間同士って一対一でコミュニケーションしているように見えますけれど、実はそこには必ず第三者が存在するんです。それは実は死者なんですよ」と発言していた。
『生きていることの科学』で郡司ペギオ−幸夫は、単なるモノとしての「死体」であることと悲しみと生前を身に纏った「遺体」であることとの矛盾・共立のうちに「一期一会の存在」(マテリアル=媒介生の存在)が感得されている、と語っていた。
私はそこ(死体と遺体の〈あいだ〉)に「死者」が立ち上がっていると考えた。
マテリアルとは死者の身体(目に見える幽霊のかたち、あるいは魂と呼ばれる目に見えない物体も含めて)のようなものだ。
内田樹は『死と身体』のどこかで「死んだ後の私と出会うこと」や「死者の体感に共感すること」や「死者の声を聞くこと」について書いていた。
いま手元に本がないのでうろ覚えで書くと、生体と死体の中間に死者という第三のカテゴリーが立ち上がる、この中間がないとコミュニケーションは成り立たない、中間とは媒介のことで、葬儀はミディアムだ、云々。
(ちなみに、『死と身体』に出てくる「時間感覚の錬磨」と『新しいデカルト』に書かれた「肉体のこと[感情]は肉体へ」という、ともに武術の極意にかかわる言葉がいまのところ私の「よく生きるための技術」となっている。
これらのことは剣士デカルトの「精神」の実質に深くかかわっているし、死をめぐる当面の話題にも大きくかかわってくる。)
篠原資明は『ベルクソン』で、デジャヴュ(既視感)をめぐる稲垣足穂の「宇宙的郷愁」──「「ひょっとしてこれから先に経験すること」のようだし、「あたかも自分ではなく、他人の上に起こっていることではないか」などと思われたりする」(「美のはかなさ」)──に触れていた(180頁)。


これらのことに触発されて、またデカルトの『省察』(一人称で書かれた哲学書)を読みこむうちに、私はかねてから考えていた「四人称」をめぐるひとつの着想を得た。
それは、四人称の世界とは死者たちの世界であるというものだ。
私たち(一人称複数)+他者(死者たちもしくは神々のようなもの)=四人称。
そんな等式がなりたつのかどうか。
四人称の世界とは数学でいう複素空間のようなもの(実数としての一人称、二人称、三人称に虚数としての死者たちを組み込んだもの)である。
そんな比喩がなりたつのかどうか。
これらの等式や比喩がなりたつとすれば、四人称の世界は私たち(生者)の世界と通底している。もしくは組み込んでいる。
その境界のひとつは、水面や鏡面、いま上映されている映画のスクリーンやディスプレイである。
そのようなことが言えるのかどうか。
死者たちは四人称で語る。
アフターダーク』(村上春樹)の語り手たちが紡ぐ言葉──「肉体を離れ、実体をあとに残し、質量を持たない観念的な視点」となって、あたかもカメラ・アイのように二つの世界(テレビ画面をはさんだあちら側とこちら側、無と実体、フィクションとリアリティ、死と生)を隔てる壁を通り抜ける言葉──のように。


     ※
昨夜読んだ『小説の誕生』のなかで保坂和志は、言葉の世界のなかでの不死性やカエルの記憶のかたちや「肉体は滅びるが文学(あるいは生命、その人)は滅びない」といった話題をめぐって延々と書きつづけていた(6章「私の延長は私のようなかたちをしていない」)。
それは、荒川修作の「例えば、自分に関係のある近所の環境は私の延長であり、その延長は私のようなかたちをしていないけれども、同じ現象を歩むことが理解できれば、私といわれている肉体がこのまま消えていったとしても、それほど恐怖に思わないでしょう。最終的に、肉体というものは自分の周りに違う環境によって物質的にも表現される」という発言(藤井博巳との対談集『生命の建築』、水声社)に触発されたものだ。


《『季節の記憶』を書く以前に私は「肉体は滅びるけれど……」なんていうことをまともに考えたことがなかったけれど、書き終わったときに私は、文学の永遠性の方は肯定も否定もせずに保留にしておくとして、肉体が滅びることへの乗り越えというか対策は何もないのかと考えるようになっていた。その結果が、『季節の記憶』の七年後に完成した『カンバセイション・ピース』なのだが、それはともかくとして、書く前に考えたことがなくて書き終わったとき考えていたということは、書いているあいだにその考えが醸成されていたということを意味している。
 つまり『季節の記憶』を書くことによって「肉体は滅びるけれど……」という考えがリアリティを持つようになった。もっと言えば、『季節の記憶』が「肉体は滅びるけれど……」という考えにリアリティを吹き込んだ、ということになり、読者として渡辺さんは著者と同じように「肉体は滅びるけれど……」と考えた。》(204-205頁)


渡辺さんというのは、有楽町の交差点で二十何年かぶりに出会った昔の友達(『季節の記憶』に登場する和歌山の蛯乃木のモデルになった保坂和志の友人T)に向かって、「T君……、あなた小説に出てたでしょう……?」「T君……、あなたの肉体はいずれ滅びるけれど……、ああして文学の中で、永遠に生きつづけるんだねえ……」と語りかけた人のことだ。
「あなた小説に出てたでしょう」という言い方は笑える(「あなた映画に出てたでしょう」とどこがどう違うのか、考えるとよくわからなくなるが)。
それはともかくとして、また、「書いているあいだにその考えが醸成されていた」というとき「その考え」を考えていたのはいったい誰なのか、そもそも考えるとはどういうことなのか、それは一気にやってくる場合もあれば知らないうちに熟成されて後から気がつく場合もある、云々といった問題はともかくとして、ここで保坂和志が考えているのは、「言葉が人間を人間たらしめているという意味での言葉の中に人間は住んでいるのだから、その言葉は近所と同じではないか」(210頁)ということだ。
「小説の中の言葉は世界を構成する要素のようなものとしてある」(186頁)。
「そのような空間では、個体としての肉体は滅んだとしても、生命は空間の中に生きつづけることになる」(184頁)。
その空間は「カエルの記憶はカエルが辿る土地の形をしている」(210頁)といわれるときの「土地の形」のことだ。
知覚をめぐるアフォーダンス理論の記憶ヴァージョンのようなことなのだろうか。
記憶は空間(「近所」)に満ちている。
あるいは、そもそも空間とは記憶のかたちのことである。
「地上は思い出ならずや」(稲垣足穂「物質の将来」)というわけだ。
ここで保坂和志が書いている「空間」とは小説が立ちあげる「世界」のことだ。
小説を書いているとき、読んでいるときに立ちあがっている「世界」といっても同じことで、別の言い方では「現前性」という。
現前性とは、霊媒師が死者の魂を呼び出すような事態のことだ。
私はそれらのことを「四人称世界」という「概念」をつかって考えてみたいと思っている。
音楽や映画、とりわけ製作現場と上映現場が技術の問題として乖離せざるを得ない映画、記憶の残光と残響が織りなす映画体験のうちにその純粋形態を見ることができるのではないかと考えている。


《投げだされた映画は、スクリーンによって受けとめられ、観客の網膜に映り、複数のシステムの複合であるだろう「見るしくみ」によって、観客に届く。この過程全体を映画と呼ぶならば、映画は実体としては存在しない。映画体験は、一回性を身にまとい、上映のつど誕生する。映画はつねに復活するほかない。》(鈴木一誌『画面の誕生』98頁)