休日の読書事情──『数学的にありえない』ほか

金曜の夜、ひさしぶりの衝動買いでアダム・ファウアー『数学的にありえない』上下(矢口誠訳,文藝春秋)を購入し、これも随分ひさしぶりの一気読みで土曜一日をしっかりと棒にふった。
「徹夜必至の超高速超絶サスペンス!」とか「ここに前代未聞のアイデアを仕込んだジェットコースター・サスペンスが幕を開ける」とか「前代未聞、徹夜必至の物語のアクロバット。記念すべき第1回《世界スリラー作家クラブ新人賞》受賞作」とか、まあ仰々しい売り言葉がたっぷりとちりばめられている。
どことなく以前『ダ・ヴィンチ・コード』(角川書店)を衝動買い・一気読みしたときの雰囲気に似ていると思っていたら、案の定「ダン・ブラウンの『ダ・ヴィンチ・コード』が切り拓いた知的サスペンスの分野に、それをはるかに凌駕する傑作が誕生しました」とも書いてある。
どう評価しようが勝手だが、「はるかに凌駕する」とはいくらなんでも言い過ぎだろう。


一日棒にふってでも読む価値があったかどうかは、この作品になにを期待するかにかかっている。
確率論や統計学脳科学深層心理学が薄っぺらく結合した現代版アカシック・レコードのアイデアを「前代未聞」と言われてもにわかに賛同しかねるし、数学や量子力学の講義が説明口調で長々と挿入されるのは興をそぐ。
そういう趣向、味付けの部分は別にして、「ジェットコースター」の方面でも、上巻のストーリー展開がどこかもたもたしているし、唐突で都合のよすぎる出来事の連続に後で説明がつくことは判っていても「なんでそうなるの」とイライラが募るし、随所にはさまれる回顧談が流れを遮断するし、そもそもいったいどの人物に感情移入したらいいのか気持ちが定まらない。
とまあ悪口ばかり書いたけれど、最後まで飽きず一気に読めたし、それなりに快感があったのでよしとしよう。
これは映画だと思って、自分なりに映像を想像しながら読めばけっこう楽しめる。
上巻の終わりあたりでこのことに気がついた。
一つだけ映像では表現できないトリックがあるのだが、それも工夫しだいでなんとかなるだろう。
こういう作品だとわかっていてもう一度金曜の夜に戻ったら衝動買いをしたかどうかはなんともいえない。
ディレクターズ・カット版でもプロデューサーズ・カット版でもどちらでもいいので『ブレードランナー』のDVDを買った方がよかったと今この時点では思うけれど、それは既に決定された現在だからそう思うだけのことなので、実際その時になると結局は衝動買いの誘惑に負けているかもしれない。


エンタメ系の小説にしろ映画にしろ、読んでいる時、観ている時はそれなりに楽しんでいたくせに、本を閉じ映画館を出る(DVDをパッケージにしまう)と、それがよく出来た作品であればあるだけ理不尽な不満がおしよせてきて「ああまた時間を棒にふった」という思いが嵩じてくる。
それは「楽しい時間が終わってしまって、また退屈な時間が始まる」という不満に近いような気もするが、たぶんそれとは違う。
「よく出来た作品であればあるだけ」と書いたが、その「よく出来た」の部分が関係してくるのだと思う。
それは、ここ一月ばかり断続的に読み進めてきてちょうどこれから最後の第四巻を一気に読みきろうと思っている『播磨灘物語』にもあてはまることで、読み終えたときに襲われるに違いない不満の感触がいまのうちから想像できる。
『数学的にありえない』や『ダ・ヴィンチ・コード』と司馬遼太郎の長編小説とではまるで作品の仕立て方が違うので一律にはあつかえないが、「ああとうとう終わってしまった」という虚脱感、こう書くと先ほどの「楽しい時間が終わってしまって、また退屈な時間が始まる」に似ているけれど、これとは微妙に違う不満がやっぱり到来するに違いない。
「よく出来た」作品は、その出来具合の違いを超えて「終わってしまう」という一点で共通する。
どれほどの熟達や天才の筆をもってしてもこれだけはどうにも避けられない。


ただ、最近つづけて観ているヒッチコックの作品や、いま読みかけていて『播磨灘物語』のあとでもし時間があればこれもついでに最後まで読みきってしまおうと思っている小島信夫の『残光』などは、たとえ観終わり読み終えてもそれ(作品を観、読んでいる時間)が「終わった」という感じがしない(後者については「と思う」と書くべきだが、最後まで読まなくてもわかるのであえて断定しておく)。
『残光』をいまそれについて書いているエンタメ系の作品と同列に扱うのはどうかと思うが、作品中に再々登場する保坂和志の言葉を借りて「読んでいる(観ている)時間の中にしかない」作品が、それを読み終えた(観終わった)後でも続いていると感じるのは、元祖「ジェットコースター」のヒッチコックと同質とまではいわないまでも少なくとも私には分別できない。
エンタメ系の作品は「つくりもの」で、そうでない作品はそうではない、などと言ってみてもはじまらない。
「つくりもの」といえばすべての作品がそうなのだから、とにかく「終わってしまう」ものと「終わらない」ものがある、それがなぜだかは判らない、としか言えない。
それは趣味、好みの問題だといわれれば、それはそうかもしれないとしか言えない。