温泉と和牛、ボルヘスの詩、UDON、ブレードランナー

一昨日から夏休みをとっている。つごう5連休で、今日が中日。
連休の初日の夜に岡山の湯原温泉で美作牛をしゃぶしゃぶとステーキで食べて、もちろん温泉にも三度ゆっくりつかって、翌日、蒜山高原を車でのんびりうろうろして、150円で買ったペットボトルに塩釜の冷泉の水を詰めて、途中立ち寄った勝山という街で草木染めの工房を見て、坂の上のカフェで冷たいバニラアイスに熱いエスプレッソ・コーヒーをぶっかけたのを食べて、帰りに佐用牛を1キロほど買って(三日月町の三坂という精肉店をひいきにしている)、二日続けて和牛を食べた。
温泉と和牛で夏の疲れが体の表面にひきだされた。
つねに眠気を感じていて頭がよく回らない。
活字を読んでもうまく頭に定着しない。
でもこの疲れは心地いい。


     ※
今朝10時頃まで寝て、ほぼ半年ぶりに近所の図書館で本を数冊借りてきて、喫茶店でそのうちの一冊、ボルヘスの第五冊目の詩集『闇を讃えて』(斎藤幸男訳,水声社)を読んだ。
最初に読んだ表題作があまりに素晴しかったので、まるごと引用しておく。


   闇を讃えて


 老い(人々がそう言い習わしている)は
 幸せな時間ともなりうる。
 動物は死んでいるか、ほとんど死んでいて、
 残っているのは人間とその魂だ。
 明らかな形と、闇に沈んではいない
 霞んだ形の間にわたしは生きている。
 ブエノスアイレスよ、
 かつてはひき裂れ場末となって
 果てなき平原の彼方へと伸びていったおまえは、
 今レコレタ墓地やレティロ広場となり、
 オンセ辺りのとりとめのない通りとなり、
 今なお南地区と呼ばれる
 心もとない古い家並みとなって帰ってきた。
 わたしの人生には物事が溢れていた。
 アブデラの人デモクリトスは思惟の妨げになるからと両眼をくりぬいたが、
 時間こそがわたしのデモクリトスだった。
 この薄明は歩みが遅く、しかも痛まない。
 穏やかな坂道と異ならず、
 永遠にも似通っている。
 友人たちには顔がない。
 女たちは何年も前の顔のままだ。
 どの街角も互に入れ替わる。
 本のページには活字が見当たらない。
 これらすべてはわたしを怯ませるはずだが、
 実のところ帰り着いた安堵の気持なのだ。
 地上に残された書物の数は夥しいが、
 わたしが目を通し、
 記憶の中で読みつづけ、読み替えつづけている章句は、
 ほんの僅かだ。
 南から東から西から北から
 数多の道が集い合い
 わたしの秘められた中心へとわたしを導いた。
 その道はこだまであり足音であり、
 女たち、男たち、苦しみ、蘇り、
 日日と夜夜、
 まどろみと夢、
 わたしの過去や世界の過去の
 それぞれの刹那刹那、
 デーン人の硬い剣とペルシア人の月、
 死者たちの勲〔いさおし〕、
 共感された愛と言葉、
 エマソンと雪と、そして多くの物事だ。
 わたしは今すべてを忘れようとする、わたしの中心に、
 わたしの代数学、わたしの鍵、
 わたしの鏡に達するのだ。
 わたしは誰か、今それを知るだろう。


その昔、まだ多感な子どもだった頃、気に入った詩をノートに一つ一つ書き写して自分だけの詩集を編んだことがあった。
そのノートは探せばまだどこかに残っているはずだ。
詩を読むということは、ほとんど自分が書いたものと誤認するほどまでに繰り返し読み続けることで、それはレコードが擦り切れるほど繰り返し気に入った音楽を聴きこむことと同じことだ。
そうやって、ほんの僅かな章句を「記憶の中で読みつづけ、読み替えつづけて」いくことだ。
やがて言葉は肉となり、わたしたちのうちに宿るだろう。


 ある、あった、あるだろうわたしは
 絶え間のない時であり表象である言葉へと
 ここに再び立ち返るのだ。
   ──「ヨハネによる福音書 一章十四節」から


「序」でボルヘスはこう書いている。
「この本が詩集として読まれることをわたしは望む。一冊の本はそれ自体では美的存在となりえず、他の事物たちと同じひとつの物だ。美的行為はそれを認〔したた〕める時、それを読む時にはじめて生ずる。自由詩は印刷上の見せかけにすぎぬと論じられもするが、この主張には誤りが潜んでいるように思われる。詩行の印刷上の形態は、リズムの彼方で、読者に伝えようとするのが情報でも論証でもなく、私的感情なのだと表明しているのだ。」
あるいは次のように。
「詩はこの世界のあらゆる要素に劣らず神秘的な存在だ。数少ない幸福な詩行さえわれわれの自慢の種とはなりえない。なぜならそれは偶然あるいは精霊の賜なのだから。」
詩は、「それを認める時、それを読む時にはじめて生ずる」。何度でも「はじめて生じる」。
──それはたかだか一時間ばかりのことにすぎなかったのだが、ボルヘス詩篇を読んでいるとき、私の肉体はたしかに「ある、あった、あるだろう」すべての言葉、記憶、時間へとつながっていた(と思う)。


 わたしは他者たちだ。あなたの粘り強い厳しさが
 救ってくれたすべての人々だ。
 わたしはあなたが知らずに救う人々なのだ。
   ──「ジョイスの霊に」から


 全的な死をこそわたしは望む。伴侶であるこの肉体とともに死ぬことを望む。
   ──「祈り」から


     ※
ちなみに、『闇を讃えて』以外に図書館から借りてきた本を記録しておく。
『分類の発想』と『映画の構造分析』はかつて読み、とくに前者には深い感銘を受けた。


内田樹『映画の構造分析──ハリウッド映画で学べる現代思想』(晶文社
中尾佐助『分類の発想──思考のルールをつくる』(朝日新聞社
◎アンドリュー・パーカー『眼の誕生──カンブリア紀大進化の謎を解く』(渡辺政隆・今西康子訳,草思社
ジャレド・ダイアモンド『銃・病原菌・鉄──二万三○○○年にわたる人類史の謎』上下(倉骨彰訳,草思社
◎安田登『疲れない体をつくる「和」の身体作法──能の学ぶ深層筋エクササイズ』(祥伝社


『分類の発想』と『銃・病原菌・鉄』は、いまちょうど佳境に入った『系統樹思考の世界』(三中信宏)に触発された。
『眼の誕生』も、同書で出てくる進化論思考(系統樹思考)のアイデアに関連して借りた。
読めるかどうかわからないが、しばらく机の上に積んでおくことにする。


     ※
午後、街へ出てひさしぶりに映画を観た。
『UDON』。「ソウル・フード“うどん”をめぐるハートフル・エンタテイメント」。
今年になって映画館で映画を観たのは『かもめ食堂』『間宮兄弟』につづいて三作目。
少し長すぎるし、後半がかなり冗長な印象だが、まあこれはこれでいい。
帰りの電車の中で無性に讃岐うどんが食べたくなった。
映画を観たあと、これもひさしぶりに大型書店で前から探していた本をゲット。
加藤幹郎『『ブレードランナー』論序説──映画学特別講義』(筑摩書房リュミエール叢書)。
まず映画を観てからとDVDをあちこち探したけれども見つからなかった。
ブレードランナー』はこれまで少なくとも三度は観ているはずだから(ただし公開版)、記憶に頼って加藤本を読むことにする。