『空間の謎・時間の謎』

このことは昨日も触れたけれど、いま、内井惣七著『空間の謎・時間の謎──宇宙の始まりに迫る物理学と哲学』(中公新書)を読んでいる。
ライプニッツ恐るべし」という意味不明のキャッチコピーに惹かれて、いつ読むというあてもないのに衝動で購入した。
最近は買うばかりで、全然読めない。
コクのある読書の時間をまとめてとることができない。
欲求不満が高じて、その結果、また新刊書に手を出すことになる。
本を買うこと自体がストレス発散になっていく。
大学を2年留年して、不毛な日々を過ごしていたことがある。
バイトは億劫で、食費にまわすべき生活費を切りつめて本を買いあさっては、読まずに飽かず眺めるだけで、精神的空白を埋めようとしていた。
たとえば、桃源社澁澤龍彦集成などはその時のもので、全7巻を揃えようとしたものの金策尽きて、手帖シリーズ篇、サド文学関係篇、エロティシズム研究篇、美術評論篇あたりで終わった。
今でも一冊千円程度で入手できるようだが、事後的に蒐集してみても、あの頃の自分がある思いをもって購入したという出来事が身体に根ざした独特の感覚とともに甦ってこない。
書物は買うものであって、読むものではない。
もちろん読みたければ読んでもいいが、読むことだけが書物とのつきあい方ではない。
昔、ある人から、本は背表紙を読むものだと、積ん読の効用を教えられたことがある。
三木清がそういうことを書いているとも教えられたように思うが、なにしろいい加減な記憶なのであてにならない。
『空間の謎・時間の謎』のことに話を戻したい。
といっても、何も書くべきことが思い浮かばない。
「空間と時間の哲学」という言葉が、今の私にとって途方もなく蠱惑的で、ほとんどエロティックな響きをもっているということだけを記録しておく。