村上春樹の大長編小説──「精神的な囲い込み」と「主観の混乱」

 最近無性に、村上春樹の小説を読み直したいと思うようになった。ここ数年目にふれるたび買い求めてきた村上春樹論(内田樹著『村上春樹にご用心』ほか)もけっこうたまってきたので、ついでにまとめて読みたいと思う。
 『海辺のカフカ』以来となる「大長編小説」の執筆作業が、06年のクリスマスの日から始まりいまも続いている。毎日新聞(5月12日夕刊)のインタビュー記事にそう書いてあった。以下、要約するのがめんどうなので記事をまるごと抜き書きしてみる。


《新作の背景として、カオス(混沌)的な状況に陥った冷戦後の世界に関する認識も語った。その予兆は95年の阪神大震災地下鉄サリン事件にあり、「9.11」事件後に顕在化した。「僕が今、一番恐ろしいと思うのは特定の主義主張による『精神的な囲い込み』のようなものです。多くの人は枠組みが必要で、それがなくなってしまうと耐えられない。オウム真理教は極端な例だけど、いろんな檻というか囲い込みがあって、そこに入ってしまうと下手すると抜けられなくなる」
 だが、そうした状況でこそ文学は力を持ち得るという。「物語というのは、そういう『精神的な囲い込み』に対抗するものでなくてはいけない。目に見えることじゃないから難しいけど、いい物語は人の心を深く広くする。深く広い心というのは狭いところには入りたがらないものなんです」》


 ここのところを読んでいて、保坂和志が読売新聞(5月11日)の「半歩遅れの読書術」にフィリップ・K・ディックの『パーマー・エルドリッチの三つの聖痕』について書いている文章を思い出した。これも関連箇所をスクラップしておく。


《『パーマー……』では、世界は巨大企業によって支配されていて、企業の外に出ることは半ば死を意味する。世界を動かしているのは国家や世界連邦ではなく企業なのだ。そして、企業の中にいる個人は忠誠心を証明するために必死の努力を強いられるのだが、その根底には主体性を奪われた者の無力感がある。この設定はディックの多くの作品に共通している。
 ディックが書き続けたテーマは、“記憶に対する不信”や“主観の混乱”だが、これは「巨大企業によって主体性を奪われた者たちの社会」という未来像とパラレルな関係にあるということが今回再読してわかった。リアルさの核は間違いなくそこにある。》


 この文章は、保坂和志自身の文学観(物語観)を述べたものではない。ここに書かれているのは、フィリップ・K・ディックの小説の「リアルさの核」とは何かである。
 それでは、フィリップ・K・ディックの小説の「リアルさの核」とは何かというと、物語の登場人物の「主観の混乱」が、これとパラレルな関係にある「巨大企業によって主体性を奪われた者たちの社会」という未来像とともに『パーマー……』のうちに描かれているということだ。
 これに対して、村上春樹の作品では、(ディックにおける「主観の混乱」もしくは「主体性を奪われた者の無力感」に相当する)「精神的な囲い込み」や「檻」とパラレルな関係にある社会像のようなもの、あるいはその背景をなす世界認識、たとえば「カオス(混沌)的な状況に陥った冷戦後の世界に関する認識」といった事柄は直接的に書き込まれていない。
 少なくとも村上春樹がこれまでに発表した作品には書かれていなかったし、いま書いているという大長編小説でも「カオス(混沌)的な状況に陥った冷戦後の世界に関する認識」が直接的に書き込まれることはないだろう。
 この「作品に直接的に書き込まれない事柄」を「作品の無意識」と呼ぶならば、村上春樹の作品の魅力のほとんどは、けっして書かれることのない「作品の無意識」の喚起力・造形力にあるのだと思う。
 物語を読み進めるうち、しだいに「無意識」という怪物が読者の心のうちにリアルで鮮明な像を結ぶようになる。物語の終末とともに怪物の呪縛から解放される。怪物は殺されるのではなく、飼い慣らされるのでもなく、ただリアルに認識される。
保坂和志もまた社会像や世界認識を作品のうちに書き込まない。しかし、村上作品のように「作品の無意識」を喚起するわけでもない。ディックとは違う意味合いで、保坂和志は社会や世界そのものを立ち上げる。)
 ところで、先の保坂和志の文章は次のように続く。


《“記憶に対する不信”というのは「自分の記憶は誰かによって偽造されたのではないか?」ということで、つまりは“主観の混乱”に行き着くのだが、ディック作品は手が込んでいて、予知能力を絡めたりする。未来が予知される世界にあっては、未来の出来事もまた記憶の一部となり、過去と未来が一緒になって“主観の混乱”を引き起こす。
『パーマー……』では、パーマー・エルドリッチが宇宙から持ち込んだドラッグを一度でもやったら最後、その人の住む世界のいたるところにパーマー・エルドリッチが侵入してくる。それは主観の世界の出来事のはずなのだが、主観と断定するにはあまりに生々しい。というよりも、主観とは本当に自分の物なのか?ということだ。
 事実、私たちの主観はすでにメディアと企業に浸食されている。メディアと企業が人から奪っているのは、時間の自由ではなく、内面の自由、つまり個人の主体性なのだ。》


 「パーマー・エルドリッチが宇宙から持ち込んだドラッグ」とは、「わるい物語」の比喩なのかもしれない。
 「わるい物語」は、(「いい物語」が「人の心を深く広くする」のに対して)人の心を浅く狭いところに囲い込む。現代社会におけるメディアと企業のように、私たちの主観に浸食する。「それは虚構の世界(物語の中の世界)の出来事のはずなのだが、虚構(物語)と断定するにはあまりに生々しい。」
 村上春樹の作品が「わるい物語」だといいたいわけではない。ただ、毒をもって毒を制す(悪をもって悪を浄化する)といったことが、村上春樹の物語には生じている。