日本近代文学と数学、横光利一『旅愁』のことなど

 村上春樹の『1Q84』で興味を覚えたことの一つに、偶数章の主人公・天吾は予備校の数学講師で幼少の頃は数学の神童だった、という設定がある。
 村上文学は生物学、生命科学と相性がいい。なんとなくそう感じていた。(初期の「鼠三部作」の主人公はたしか大学で生物学を専攻していた。)
 だから、村上春樹と数学の取り合わせは新鮮だった。(ただし、そこでの「数学」は、数学には答えがあるが物語にはないといった、「物語」との対比のためだけに出てくる程度で、作品世界の奥深いところに内在的につながっている印象は希薄だった。)
 まだ読んでいないけれど、小島寛之著『数学で考える』(青土社)に「暗闇の幾何学―数学で読む村上春樹」の章がある。いったいどういうことが書かれているのかとても興味がある。


 そもそも数学と文学の組み合わせ自体が興味深い。そういう視点で日本近代文学を考えてみるときっと面白いに違いない。
 といっても、夏目漱石の「坊ちゃん」が数学教師で、立原正秋の小説の主人公がフェルマー予想の証明を趣味にしているとか、あるいは、その漱石が坊ちゃんよりも数学が得意で、立原正秋は小説を書くのにいきづまったら『解析概論』を読んでいた、等々の(片野善一郎著『数学を愛した作家たち』にでてくるような)エピソードに興味があるわけではない。
 数学の概念と小説の観念とががっぷり四つに組んだ、そのような作品の系譜がありうるのではないかと思うのだ。[*]
(たとえば小川洋子著『博士の愛した数式』はその系譜につらなるのではないか、つまり単に数学者が登場するだけの作品ではないのではないかと思うが、あまり自信がない。それに「坊ちゃん」だって、立原正秋の作品だって、『1Q84』だって、単に数学者や数学愛好家や数学講師が出てくるだけの作品ではないのかもしれない。)
 これはまだ思いつきの域を出ないが、『光の曼荼羅──日本文学論』(安藤礼二)に取り上げられた作家たち(埴谷雄高稲垣足穂武田泰淳江戸川乱歩南方熊楠中井英夫折口信夫)の多くは、その系譜に入るのではないかと思う。
 その安藤氏が取り上げていない作家、作品のうちで、もっとも興味深いのは、横光利一『旅愁』『微笑』である。
 といっても、これらの作品も未読なのであまりエラそうなことは言えない。直観的にそう思っただけの話で、実証はこれから。
 青木純一氏のブログ「ハトポッポ批評通信」の「横光利一」の項など眺めながら、関心が続くかぎり、おいおい取り組んでいこう。(そうそう、「日本近代文学と数学」を考えるのなら、横光利一の弟子・森敦のことを忘れてはいけない。)


[*]数学知と文学知の関係はとても妖しい。そこに哲学知や宗教知(や精神分析知や芸術知や技術知や科学知)などがからんでくるともっと妖しい。数学知と哲学知の関係については、『現代哲学の名著──20世紀の20冊』の序文の扉に記されていたカントの言葉が印象深い。


《さて、すべての理性認識は、概念による認識であるか、概念の構成による認識であるかの、いずれかである。前者は哲学的と呼ばれ、後者は数学的と呼ばれる。[略]それゆえにひとは、いっさいの(ア・プリオリな)理性の学のうちで、数学だけは学ぶことができるけれども、(それが歴史的なものでないかぎり)哲学についてはけっして学ぶことはできない。理性にかんしてはせいぜい、哲学するのを学ぶことができるだけなのである。》(カント『純粋理性批判』第二版八六五頁)


 この論法を拡張して、つまり「概念による認識=数学知」と「概念の構成による認識=哲学知」の二対に、「観念による認識・実践=宗教知」と「観念の構成による認識・実践=文学知」の二組を重ね合わせて、たとえば「日本近代文学における数学」などといった議論を展開することができるのではないか。そんなことを考え始めると眠れなくなる。