双子のように響き合う文人哲学者

坂部恵『不在の歌──九鬼周造の世界』


 文人哲学者・九鬼周造という「異例の哲学者」(『九鬼周造エッセンス』「解説」での田中久文氏の評言)の度はずれたスケールとその深さまた高さを、「註解」もしくは「註釈」という方法で凝縮した格好の入門書。入門書というよりは誘惑の書。坂部恵というもう一人の文人哲学者(もしくは、『かたり』の文庫解説での野家啓一氏の評言を借りるならば、「詩人哲学者」)の音韻と音階が「双子」のように重ね合わされている。とりわけ「ポンティニー講演」をめぐる叙述の濃度が高い。以下、その概略。


 第1章「天心の影──「根岸」と「或る夜の夢」」。
 「[実の父]隆一、母[波津]、[心の父・岡倉]天心と周造自身とからなる九鬼の四角形の宇宙ないし反─宇宙(お望みならば、一種「アンチ・エディプス」的な四角形の反─宇宙)」(21頁)が、「私は、はたして何者なのか」という「みずからの同一性の根底を揺るがす深い不安」(127頁)を投げかけた。
 それらは後年の、周造の思考における「女性性」(フェミニテ)ないし「たをやめぶり」、また「両性具有」「分身」「双子」「二元性」「エロス」等々のテーマへと関連していく(128-129頁)。


 第2章「いのち寂し──『巴里心景』と『「いき」の構造』」。
 九鬼の詩魂(とくに短歌)を一瞥した後、『「いき」の構造』が、異郷にあって二人の父と母を想う「周造の内面にはらまれた幾重にも重層的な二元の邂逅の「緊張に支えられて、はじめて魅力あふれる作品たりえている所以」(104頁)が述べられる。


 第3章「わくら葉に──ポンティニー講演と『偶然性の問題』」。
 1928年、ブルゴーニュの小村シトー会の修道院で行われた二つの講演が語られる。日本人によって外国語で書かれた日本文化論として『茶の本』『東洋の理想』『武士道』『代表的日本人』等に「匹敵する重みと問題性をもち」、また「周造の哲学的思索のもっとも深くかつ重要なモチーフを端的に提示するもの」(109頁)。「九鬼の思索の営為全体におけるひとつの頂点を占める」(140頁)もの。
 第一の講演「東洋における時間の観念と時間の捉え返し(反復)」。「これだけ抽象度の高い形而上学的思弁を能くする力は、…空海道元、梅園らごく少数の例外を別として、ほとんど見あたらない類のものである」(121頁)。
「そこには、おのずから、周造自身の時間に関する何らかの神秘体験、あるいは、すくなくともそうした神秘体験への想像力をもってする深い共感の裏打ちがあったものと考えられる」(123頁)。「神なき時代の神秘体験について深く思いをいたしたジョルジュ・バタイユの精神的雰囲気からそれほど遠くないところにいなかったと想像しても、それは、それほど見当ちがいのこととはいえない」(124頁)。
 第二の講演「日本芸術におけ〈無限〉の表現」。「循環する時間」のテーマが「出会い」のテーマと密接な関連をもって述べられている(139頁)。「いき」の概念装置の射程には入りえぬ類のもの、水墨画や蕉風の俳諧等を主たる考察の素材とするこの講演は、「多くの音域と音階を含む周造の生と思索の宇宙にあって、ある意味で、[『「いき」の構造』と]対極的な互いに補い合う位置を占めるものである」(140-141頁)。
 続いて『偶然性の問題』。「自己の絶対的孤独と峻厳な宿命の同一性の底無しの深みと、自己と他者の二元的対立というふたつのテーマの重なり合うところに生起してくるもの、すなわち、あえていいかえれば、無限の厚みをもった永遠の今を生きる一種の神秘体験の核をさらに一層掘り下げて行くところに生起してくるものこそ、〈偶然性〉の問題にほかならなかった」(150頁)。


 第4章「双子の微笑──「文学概論」と「日本詩の押韻」」。
 九鬼の「文学概論」は、「周造の生涯の思索の営為のひとつの頂点をなし、また集大成をなすものとして、周造の代表作の筆頭に数えられるべきものである」(187頁)。また「たとえば、漱石の「文学論」とならんで、明治以後の日本の文学論のなかで、際立った思弁性と透徹した体系性という特色をもって、孤立に甘んじ、今なおい孤高を持しているようにおもわれる」(188頁)。
 その「文学概論」の最後の結論。《我々は文学とは「存在の言語による表現自身」といふ主題に基いて、存在の領域を一々考察し、最後に存在と同意義である時間の観念に到達して、時間の見地から文学を見た。そして文学とは「時間の言語的表現それ自身」といふ認識にたどり着いた。》
 最後に「日本詩の押韻」。論の末尾近く、「文化多元論的視点に加え、韻律に体現される垂直のエクスタシス、〈いのちのはずみ〉の実存的意味ないし局面」について述べた文章。《律と韻とは詩の音楽的様相である。音楽が心のおのづからな流れとして世界的の言葉であると同様の意味で、詩の形態も世界的の言葉である。(略)しかし押韻によつて開かれる言語の音楽的宝庫は無尽蔵である。韻の世界は拘束の彼岸に夢のように美しく浮かんでゐる偶然と自由の境地である。》