フィクションとしてのテクスト、フィクションとしての人生

 貫之ときけば、古今集仮名序の「やまとうたは、人のこころをたねとして、よろづのことのはとぞなれりける」を想起する。
 和歌は「人のこころ」を詠んだもの。表現せずにはいられない、やむにやまれぬ「思い」を言葉の技術を駆使してうたいあげるのが和歌である。仮名序冒頭の言葉は、そのように読むこともできる。
 しかし、貫之は「屏風歌」の名手だった。屏風に描かれた絵に合わせて言葉を編集する。なにか詠むべき「思い」が先にあって、それを苦心惨憺して和歌に表現したのではない。その屏風歌を貫之は大量に詠んだ。貴族からの注文生産に応じるいわば和歌の職人。
 そして、歌合における題詠や、贈答歌など、貫之以後の和歌は言語遊戯、社交の具としての洗練を極めていく。
 ここに、古典和歌をめぐる「建前」と「本音」のミスマッチがある。だから、「貫之集」に収録された屏風歌以外の和歌のうちに貫之の「孤心」を読みとる見方もでてくる(大岡信)。
 しかし、そのようにとらえられた貫之は、いずれも「近代人」なのではないか。逆にいうと、それらは近代人の視点から見た貫之像なのではないか。
 川嵜克哲氏は『夢の分析──生成する〈私〉の根源』で、平安時代の人には内面がないと書いている。反省的な自己意識を蔵する私秘的な内面。平安人・貫之がいう「人のこころ」は、そのような近代人に装備された心のことではないということだ。
 西郷信綱著『古代人と夢』に、古代人は「夢は人間が神々と交わる回路であり、そこにあらわれるのは他界からの信号だと考えていた」と書かれている。貫之はそうした意味での「古代人」だったかもしれない。
 貫之が生きたのは、いわゆる国風暗黒時代を経て、中国文明の圧倒的な影響からようやく脱しつつある時代だった。たとえば仮名文字の成立、たとえば勅撰和歌集の編纂に、それは端的にあらわれている。
 貫之こそ、この文化的独立運動の先頭に立つ「近代人」だった。そういってみることもできるだろう。
 まことに、貫之をどうとらえるかは錯綜をきわめる。語る人の立ち位置がその貫之像に反映してしまう。そうしたことのうちに、一種の「政治性」を見てとることもできるだろう。
 神田龍身著『紀貫之──あるかなきかの世にこそありけれ』は、ある意味で、徹底した「近代」の視点に立ち、そこから見られた究極の「近代人」貫之の多面的な像を描き出す示唆と刺激に満ちた書物である。


     ※
 本書は、「貫之テクストにみるフィクションの問題」(297頁)を多角的に論じる。
 そこには、あらためて取りあげ賞味または吟味すべき多くの論点がちりばめられている。(たとえば貫之歌論の政治性、たとえば男同士の贈答歌に孕まれたホモ・ソーシャル的連帯、たとえば貫之の「伊勢物語」体験、たとえば土佐日記における文学空間としての海、たとえば本書で二度言及される三島由紀夫と貫之歌論の関係、等々。)
 が、ここでは、「エクリチュールの問題を徹底して問いつづけてきた貫之文学」(323頁)と「フィクション」の関係、同時に「人のこころをたねとして」のロマン主義的ともいえる解釈への批判にもつながる議論を三つ引いておく。
 その一は、古今集が屏風歌を認めずにそれを四季歌とし、貫之集が四季の部立を設けなかったのはなぜかをめぐる貫之屏風歌論。
 神田氏は「貫之文学がいかに屏風歌なるものから生成されたか」(92頁)を詳細に解析した上で、「平安朝和歌[とりわけ貫之]にあっては、絵[というフィクション]を媒介するところから四季歌は生成されたし、和歌の自然観も深められた」(86頁)と指摘する。
 すなわち屏風歌歌人として生きたがゆえに貫之が、(そして同時代にあっては貫之だけが)、和歌における「フィクション」を発見し、「『古今集』編纂の段階で、和歌の意味はコンテクストが決定すること、和歌の言葉は無限に引用可能であることを認識し」(93頁)得たのである。
「もちろん、このことは遥かに遡れば、歌が書記されるようになったことにその淵源がある。歌が声として発生した際には、その歌声は発生とともに消失するが、書記化された歌は現場を離れて反復される。だからこそ四季歌にも屏風歌にもなり得るし、詠歌主体の変更[たとえば男から女へ]も可能となり、いかなる詞書を付すかも勝手である。(略)私がいいたいのは、和歌が書記されたことで、歌なるものに本来的に孕まれていた反復可能性という問題が顕在化したということである。」(93-94頁)
 その二は、土佐日記一月二○日の阿倍仲麻呂の挿話(「唐土とこの国とは言ことなるものなれど、月の影は同じことなるべければ、人の心も同じことにやあらむ」)を「本邦初の翻訳論」と読解したくだり。
 神田氏は、この翻訳論は「人のこころをたねとして」云々をはるかに超えた批評レベルに到達しているとする。
「仮名序の「言」と「心」とは、詠歌主体の心とそれを基に表出された歌との関係をいうが、ここでは、シニフィアンシニフィエ、という言語の構造それ自体の分析用語としての使用である。しかも、「心」はすべてを根拠づける起源としてア・プリオリにあるのでなく、「言」から事後的に発見されたとする。これは「種」としての「心」が先行し、そこから「葉」が生ずるとする仮名序の因果論の比ではない。」(235-236頁)
 その三、日本語音声を指示する「透明なシニフィアン(記号媒体)」(281頁)として仮名をとらえるロジックを退け、それは「紙上のパロール(書かれた音声)」すなわち「パロールを装ったエクリチュール」以外ではないとする議論。
 神田氏は、(たとえば、「桜花散りぬる風のなごりには水なき空に波ぞ立ちける」の有名歌が、「散花の残映を「名残」かつ「なごり(余波)」とし、しかもそれを「水なき空」に立つ「波」と喝破した」(59頁)ごとく)、「風それ自体でなく、波なる視覚化において初めて風の正体が見極められ、波の背後の「心」が摘出されたように、仮名という音声の視覚化によって、初めて言葉の正体が対象化され得たのである」(296頁)とする。
 そして、「仮名文字こそが偽装の日本語音という最大のフィクションだったことになる。(略)古今集歌の表現は初めから紙上の歌として生成されたものであり、うたわないことを前提にしている以上、フィクションとしての歌である」(297-298頁)と結ぶ。


 ただし、本書がここで結ばれているわけではない。
 以下、「本音」としての漢文、ソシュール晩年のアナグラム研究を思わせる貫之の謎の遺作(313頁)、そしてフィクションとしての貫之の人生といった魅力的な話題が続く。
 それ以前にも、「ないものを現前させる」(247頁)言葉のはたらきや「水面なるシニフィアンと、仮名文字との喩的関係」(295頁)等々の大切な論点が提示されている。
 が、それはともかく、貫之の歌が、屏風絵というフィクションを鏡(媒介)として、フィクショナルな心と主体を詠む鏡像を始発とするものであったこと、したがって、「人のこころをたねとして」がある政治性・戦略性をもった宣言であったことなどは、神田氏が指摘するとおりだろう。
(というのも、三島由紀夫(『日本文学小史』)がいうように、古今集の編纂は、「力による領略ではなくて、詩的秩序による無秩序の領略」を志向するものだったのだから(21頁)。また、古今集編纂時、すでに貫之が、歌におけるフィクションやコンテクストの重要性を認識していたのなら、仮名序の「言」と「心」とは、「詠歌主体の心とそれを基に表出された歌との関係」ではありえなかっただろうから。)
 そして、「「心」はすべてを根拠づける起源としてア・プリオリにあるのでなく、「言」から事後的に発見された」こと、それが「偽装の日本語音という最大のフィクション」を担う「紙上の歌」、すなわち貫之歌を典型とする古今集歌の表現を通じて遂行されたこと、これらもまた神田氏の指摘どおりだと思う。
 私がこれに付け加えることがあるとすれば、それはただ一つ、それらの議論はすべて、貫之がその果たすべき仕事をなし終えた後でこそ、はじめて成り立つものなのではないかということである。
 もちろん、貫之以前にも、在原業平をはじめとする六歌仙万葉集歌、等々の「やまとうた」の伝統につながる歌の数々が詠まれていた。それは仮名序に書かれているとおりである。
 だが、貫之の生きた時代はどうだったか。和歌は、公的な世界からは「棄てて採られず」(真名序)、「いろごのみのいへに、むもれ木の人しれぬこととなり」(仮名序)果てていたのである。
 貫之はそこから、つまり、俗なる世界のただなかにあって、屏風絵というフィクショナルな鏡面に立ち騒ぐ「現象」を凝視し、われを物思わせる場そのものへと遡行することによって、歌の本質を独力で再定義しようとした。
 だからこそ、歌は「人のこころをたねとし」なければならぬと宣言したのだし、そのようにして生み出された「詞」であったればこそ、事後的に「心」の発見(創出)をもたらす「偽装の日本語音」の力をもちえたのである。私はそう考えている。