神も昔は人ぞかし─神仏習合と歌枕

 先日、大岡信著『うたげと孤心 大和歌篇』(集英社)を読んでいて、「神仏混淆というまことに日本的な信仰形態の定着という事実と、一方、律令時代から摂関時代への移行、遣唐使の廃止、平仮名の発明と普及、『古今和歌集』勅撰事業の推進と完成などにみられる、日本文化の大陸に対する相対的な独立の達成という事実とが、まさにこの時期に軌を一にして生じている」と書かれているのが目にとまった。
 これは、同書の最後におかれた「狂言綺語と信仰」の章にみられるもので、文中「この時期」とあるのは、「平安期、とくに宇多上皇時代以後」の時代をさしている。


《私はあるいはまるで見当ちがいなことを言っているのかもしれないけれど、熊野信仰の隆盛という現象は、こういう時代をある意味で最もよく象徴する出来事だったと感じるのだ。数世紀にわたってせっせと学んできた仏教思想の摂取が一段落し、貴族階級はとくにその美意識において仏教思想を肉体化した。別の言い方をすれば、仏教思想を美意識に偏した形で肉体化した。それが仏教の日本的摂取のいちじるしい特徴だったといえるだろうし、そこまできてはじめて、氏族神・祖先神崇拝のきわめて感性的な信仰である神道とのあいだに、混淆が成りたつ可能性も生じたのだろう。垂迹思想というものは、そういう意味で、まさしく平安時代に定着しなければならなかった。》(247-248頁)


 大岡氏はつづけて、定家が『名月記』に記した後鳥羽院熊野御幸の様子を紹介した後、後白河院による熊野御幸の話題に転じ、「ちはやぶる神/神におはしますものならば、/あはれと思しめせ、/神も昔は人ぞかし。」(資賢)の歌に、神仏混淆という日本的信仰の独特さを見る。


《ついでにいえば、この一句[神も昔は人ぞかし]、ヨーロッパ的な神を考えるなら、ぎょっとするようなことを言っているわけだが、もちろんこれは、「仏も昔は人ぞかし」というのと大差ないのであって、神仏混交という日本的信仰の独特さがここにもあらわれているにすぎない。》(267頁)


(ちなみに、この「狂言綺語と信仰」の章で、大岡氏は、「うたげ」的世界のうちにあらわれた後白河院の「孤心」を抽出した「今様狂いと古典主義」の章をふまえ、後白河院という「今様狂いの帝王」の思想的根拠を「狂言綺語と讃仏乗の一致を信じつづけること」にあったとし、これを特殊な個人だけのものとせず、日本における「信仰=思想」と「狂言綺語=文学」の問題のうちに、すなわち、「「狂言綺語」の価値を体質的・先験的に肯定してかかるわれわれの古い古い民族的習性によって、つねに曖昧に、なしくずしにされる歴史」の鏡像として位置づけ、そして、「ちからもいれずして」云々と和歌の力をたたえた貫之の思想の由緒正しい後継者と規定している。)


     ※
 桑子敏雄著『環境の哲学──日本の思想を現代に活かす』(講談社学術文庫)第一章「空間の豊かさ」の「3 空間の意味づけの思想──本地垂迹思想と歌枕」に、「日本の思想では、言語による空間の意味づけが宗教的、芸術的な表現をとりながら、きわめて重要な役割を演じていた」、「その第一は、神仏習合思想、とくに本地垂迹思想による空間の意味づけであり、もうひとつは歌枕のもつ意味である」と書かれている。
 桑子氏によると、習合思想は「ローカルな地点に立つグローバルな思想の統合という構図」をもち、また、歌枕の空間は「漢詩に対する「やまとうた」の空間として、つまり、中国に対する日本というかたちで空間的な意味づけを与えていた」。


《さて、本地垂迹説と歌枕とは本来宗教的空間と言語文化的空間という別の意味づけのなかにあったのだが、この二つを根源的な意味で統合したのが、平安末の歌人西行であった。西行は、古来詠われた歌枕を実際にその足で訪ね、多くの歌を残すとともに、とくに最晩年、伊勢神宮に『御裳濯河歌合』と『宮河歌合』というふたつの歌合を奉納することによって、神仏習合思想を和歌によって表現した。つまり、ふたつの空間意識、神道と仏教という宗教的空間と和歌という文化的空間とに対する意識が、西行の詠歌活動によって統合されたのである。》(40頁)


本地垂迹思想と歌枕。この二つのものは、近代国家によって、廃仏毀釈、地名・住居表示変更を通じて破壊されていった。)