和歌における思想的構造の意味論的研究


 井筒俊彦への関心が高まっている。
 司馬遼太郎との対談で、「私は、元来新古今が好きで、古今、新古今の思想的構造の意味論的研究を専門にやろうと思ったことさえあるくらいです」と語っているのを目にして以来のこと(『十六の話』文庫版の附録「二十世紀の闇と光」)。


 慶應義塾大学出版会の特設サイト「井筒俊彦入門」に収められたエッセイ「新古今和歌集」で、若松英輔氏が先の井筒の発言を踏まえて次のように書いている。


《和歌における思想的構造の意味論的研究、この分野は、今にちも未だ黎明期である。万葉集を対象に佐竹昭広、あるいは白川静が論考を書き、それぞれ秀逸な成果を残しているが、古今集さらには新古今集まで領域を広げると、ほとんど着手されていないといってもいいのではあるまいか。》


 若松氏によると、佐竹・白川が注目したのは、「万葉集における「見ゆ」の世界、古代人における「見る」の意味論」で、「それは神との交わりと神への賛美と神が遍在する世界への祝福を意味した」。
 これに対して、古今、新古今では、「眺め」という語彙がキーワードになる。


《古今の時代、「眺め」は、折口信夫のいう通り、春の長雨のとき、「男女間のもの忌につながる淡い性欲的気分でのもの思い」を意味した。
 しかし、新古今の時代になると様相が一変する。「眺め」とは情事を示す一語に留まらない、存在論的な「意味」を有するようになる。現象界の彼方を「眺め」ようと試みる歌人、現象的には詩人だが、精神史上の役割においては、彼らはむしろ「哲学者」だった。
 「彼は天稟の詩魂を有つ詩人であることによって、ギリシア形而上学の予言者となった」と井筒俊彦が『神秘哲学』でクセノファネスを論じていった同じ言葉が、新古今の歌人たちにむけて発せられたとしても、驚くに当たらない。
 「眺め」とは、「『新古今』的幽玄追求の雰囲気のさなかで完全に展開しきった」とき、「事物の『本質』的規定性を朦朧化して、そこに現成する茫漠たる情趣空間のなかに存在の深みを感得しようとする意識主体的態度」であると井筒俊彦はいう。
 「眺め」ることが即時「存在」との応答になる。「一種独得な存在体験、世界にたいする意識の一種独特な関わり」となるというのである。》


 若松氏はつづけて、風巻景次郎の『中世の文学伝統』に対する井筒俊彦の評を紹介する。
「日本文学史の決定的に重要な一時期、『中世』、への斬新なアプローチを通じて、文学だけでなく、より広く、日本精神史の思想的理解のために新しい地平を拓く。」
(1987年の『図書』のアンケート、岩波文庫「私の三冊」に答えたもの。ちなみに、他の二冊は『善の研究』と関根正雄訳『旧約聖書 創世記』。)