最近読んだ本─中沢新一『日本の大転換』ほか

 中沢新一著『日本の大転換』を読んだ。


 ここに書かれている事柄の多くは、中沢新一さんがこれまでに書いてきた本のなかでもっと精緻に論じられている。
 たとえば「太陽と緑の経済学」の先駆をなすピエロ・スラッファの「贈与的交換の部分を組み込んだ生産」の理論が、十八世紀のフランソワ・ケネーによる「フィジオクラシー(重農主義)」を原型としているという話題に続けて、「これについては、すでに『純粋な自然の贈与』に詳しく語ってありますから、ここでは多くは繰り返しません」とあるのは著者自らが言及している例だ。
 そのほかにも人間の心のトポロジーと贈与の経済の構造との相同性をめぐる話題については『愛と経済のロゴス』で十全に論じられていたし、日本文明がもつ「インターフェイス性」や「ハイブリッド性」等々の話題も『フィロソフィア・ヤポニカ』で余すところなく論じられていた。
 また本書で始めて、マルクスバタイユハイデガーの仕事を先駆形態とする「エネルゴロジー(エネルギーの存在論)」という新しい知の形態が提唱されているのだが、これにしてもその議論の中身(すべてのエネルギー革命はそれに対応する宗教思想と新しい芸術をもっていて、来るべきエネルギー革命は一神教から仏教への転回として理解できる云々)を見ると、必ずしも初めて目にするものではない。
 そもそも「媒介のメカニズムを使って生態圏の出来事を解釈する哲学的思考」としての神話や一神教や「第二種交換」としての芸術のあり方などは、中沢新一のラフワークともいうべき対称性人類学をめぐる「カイエ・ソバージュ」シリーズ全体のテーマである。


 それではこの「パンフレット」はそうした中沢学とでもいうべき知的営為の簡略普及版にすぎないのかというと決してそうではない。
 それはどうしてかというと、中沢新一さんがこの本を書いたのは事態が大きく進行している最中のことだったからだ。ミネルヴァの梟が飛び立つべき時ではなかったからである。
 この本は理論の書、解説の書ではない。文明のインターフェイスとしての思想家による新しい思考の宣言、あるいは誤解を怖れずにいえば、宗教学者中沢新一が始めて書いた新しい宗教の宣言(マニフェスト)である。そこに決定的な新しさがある。


《日本はいま、文明としての衰退の道に踏み込んでしまいかねない。その日本文明が大津波原発事故がもたらした災禍をきっかけとして、新たな生まれ変わりへの道を開いていくために、私たちがとるべき選択肢は、ただひとつであるように思われる。幾重にも重なった困難のいばらを切り開いて、前方に向かって、エネルゴロジー的突破を敢行すること、これである。
 もとどおりの世界への復帰ではない、自然回帰的な後退でもない。私たちは前方に向かって、道を切り開いていくのである。私たちは、世界に先駆けて自覚的に第八次エネルギー革命[アンドレ・ヴァラニャックはエネルギーの歴史を七段階に分類し、第二次大戦後の原子力とコンピューターの開発に基づくそれを第七次革命と呼んだ]の道に踏み込んでいく、またとない機会を得た。そしてそれをとおして、袋小路に入り込んでいる現代の資本主義に、大きな転換をもたらすのである。そのように今日の事態を理解するときにはじめて、私たちには希望が生まれる。》


 最後に、原発と自動車の違いをめぐる先の論件について本書読了後の見解を述べておくと、自動車の場合は「媒介のメカニズム」もしくは「インターフェイスの構造」が社会と人間と技術の間に組み込まれているが原発はそうではない。そこが決定的に違う。
 勢いで田口ランディさんの『ヒロシマナガサキ、フクシマ──原子力を受け入れた日本』を一気読みした。いろいろ思うところがあったが、まだ整理できない。読後の感銘は、もしかすると中沢本以上の出来映えではないかと思った。


     ※
 吉行淳之介『夕暮まで』を読んだ。


 「言葉に酔う」としか言いようのない体験からひさしく遠ざかっていた。『夕暮まで』を読み進めている間中ずっと、吉行淳之介が繰り出す言葉に酔い続けていた。文章に躰が反応する。至福であるが鋭く痛い。
 梨木香歩の『家守綺譚』はまだ途中だが、映画「西の魔女が死んだ」を観た。素晴らしい作品だった。映画の感想を語る言葉がほしい、身につけたいと痛切に思う。