怪物の力を解き放つこと――『古代から来た未来人 折口信夫』

 中沢新一著『古代から来た未来人 折口信夫』(ちくまプリマー新書)。


 折口信夫は「古代人」だった。たとえば、『古代研究』冒頭の「妣が国へ・常世へ」に出てくる次の一節。


《十年前、熊野に旅して、光り充つ真昼の海に突き出た大王个崎の突端に立つた時、遥かな波路の果に、わが魂のふるさとのある様な気がしてならなかつた。此をはかない詩人気どりの感傷と卑下する気には、今以てなれない。此は是、曾ては祖々の胸を煽り立てた懐郷心(のすたるぢい)の、間歇遺伝(あたゐずむ)として、現れたものではなからうか。》


 この文章をめぐって、著者・中沢新一は次のように書いている。
 日本人のルーツのひとつは南方の海洋世界にある。一万数千年前、インドネシア海域に没した大陸スンダランドの高度な新石器文化が島づたいに日本列島に渡り、縄文文化の基礎を築いた。この民族的な集合記憶が、長い休眠状態から隔世遺伝(atavism)のごとく突然めざめ、間欠泉のように、折口信夫という近代人の心にほとばしり出たのだと。
 そして、「作家」としての折口信夫が表現したいと思っていたのは、自らの内なる古代人の思考を近代のまっただなかによみがえらせるという、前例のない精神的冒険だったのであり、折口信夫の思考と文章をとおして、日本語というローカルなことばの全能力が開かれ、思考のことばの深みで思考を超えた「存在の根」になまなましいほどの感触をもってふれる「奇跡」が実現されているのだと。
 しかも、この古代人の思考は、日本人という民族に特殊なものではなく、原生人類(ホモ・サピエンス)、すなわち技術とことば、宗教と芸術をもつ人類に共通する普遍性をそなえたものだったのだと。


 こうして、古代人・折口信夫の「奇跡的な学問」の精髄が一気に開示される。
 人類普遍の「存在の根」に通じる他界(あの世)からの来訪者、すなわち精霊(スピリット)としての「まれびと」論。その末裔として、生と死を一体のものと考える古代人の思考をそのままに生きようとした中世の芸能の民をめぐる論考。
 以上が本書の前半で、後半になると、「未来人」としての折口信夫の(敗戦後の)思考が開く途方もない深さと広がりが解き明かされる。
 いわく、『死者の書』以来、折口信夫が取り組んだ未完の宗教学は、「民族の自然智(Natural Wisdom)の茫漠たる集合体」としての神道に、ユダヤ教キリスト教の特徴である一神教としてのひとつの明確な組織と体系を与えようとするものだった。
 それは、「あらゆる宗教の誕生以前にあり、またあらゆる宗教の終焉の後の世界に生まれるであろう知性の形態」であり、「歴史の中でどこでもまだ実現されたことのない、ひとつの理念の構造」であった。


 このあたりにくると、本書の叙述はもはや折口信夫の「解説」の域を超えている。いや、そもそもこの書物は折口信夫の思想と学問を「解説」するために書かれたものではない。それはむしろ、折口信夫という古代人の思考を自らの内によみがえらせたシャーマン・中沢新一自身の語りである。
 たとえば、折口信夫が注目したムスビの神の内部では物質と生命と魂の三つが協同し、この三位一体構造はキリスト教の父と子と聖霊の三位一体に組み込まれた聖霊の働き(増殖)と深い共通性を持っている。
 これなどは、まさに中沢新一の未完の宗教経済学が切り開きつつある世界を告知するものである。
 また、芸能史を取り上げた章では、金春禅竹の『明宿集』や折口信夫の『翁の発生』にふれ、この世とあの世、人間と人間ならざるものとの境界面でおこなわれた芸能の不穏な力を論じた最後に、こう書いている。


《あらゆる芸能が、本質においてはみな怪物(モンスター)なのである。折口信夫は怪物としての芸能を誉めたたえ、怪物だからこそ好きだと語り続けた。折口の学問の精神をよみがえらせることによって、わたしは日本の芸能をふたたび怪物として生まれ変わらせたい、と願っている。》


 これもまた、中沢新一の芸術人類学がこれからつき進もうとしている方向を予告している。
 怪物・折口信夫の思考にひそめられた未発の力を解き放すこと。それこそ、中沢新一が構想しているもう一つの「奇跡的な学問」の夢なのである。


 それにしても、「折口信夫の著作を前にしたときほど、わたしは自分が日本語の使い手であることを、しみじみと幸福に感じたことはない」と、これほどまでの賛辞を捧げられる対象をもつことは、ほんとうに幸福な生だと思う。
 こういう書物を、もっと若い時分に読んでおきたかった。