大森哲学の流れとよどみ──『大森荘蔵』

 野矢茂樹著『大森荘蔵──哲学の見本』(講談社)。


 著者は本書で、大森哲学の「流れ」を、その源流の最初の一滴から上流・中流下流へと、死後にも続くその「よどみ」にいたるまで、大森ゆずりの明晰簡明な言葉で語っている。
 目の前にコーヒーカップが見える。でも、見えているのはある特定の視点(パースペクティブ)からでしかない。たとえば、その背面は見えない。見ようと思えば見えるけれども、回り込んで見たコーヒーカップの知覚像は、いま・ここで私に見えているそれではない。こんなシンプルな場面から大森哲学は始まる。
 知覚を超えたもの、およそ経験を超越したものを、われわれはどう理解しているのか。たとえば、知覚されない物、電子などの理論的構築物、過去や他我。それらをどう認識しているか、ではなくて、どのように了解しているか。
 こうした問いに答えるため、大森はまず、前期(上流)において、物と知覚の「重ね描き」の論を提示する。それが、中期(中流)において、知覚という経験をより豊かなものにする「思い」や「虚想」を含んだ、「立ち現われ一元論」へと転回する。後期(下流)では、さらに、「思い的に立ち現われるものは、思い的に存在する」とか、「過去世界もまた言語実践によって社会的に制作される」といったかたちで主張される「語り存在」の論へと進化していく。
 著者は、その堂々たる流れを克明にたどり、時々のよどみにおける悪戦苦闘のプロセスを丹念に腑分けして、大森荘蔵にとっての、かつまた野矢繁樹にとっての「哲学するということの手触り」を、噛んで含めるようにして語る。そして、「どうだ、これが哲学だ」と誇らしげに見得を切るのだが、それが虚しく空を切ることはない。(「噛んで含める」とは、文字どおり、死せる大森に噛みつき、論戦を挑み、著者自身の哲学的思考をそこから紡ぎだしていくことだ。そして、実はこの点こそが、本書最大の読み所になっている。)


 著者は、「大森は生涯経験主義者であり、かつ、独我論者であった」と書いている。
 このうち、大森荘蔵が生涯独我論者であったことについて、別のところでは、「ただひたすら自分の生の現場からすべてを捉えようとする独我論的まなざしを、けっして捨て去ろうとはしなかった」と書き、また、立ち現われ論における「独我論への傾き」として、「すべてが立ち現われる「今」と「私」。あたかも繭を紡ぐ一匹の蚕のように、大森はどうしてもそこへ戻っていく」とも書いている。
 この意味での「独我論」は、「経験主義」と同義である。
 大森哲学における「知覚の優位」について述べたところで、著者は、大森がとりわけ知覚を重視するのは、知覚こそ「私が生きている現場」だからであり、その意味での現場主義は「大森哲学を生涯貫く特徴」であったと書いていた。この「現場主義」は(ただひたすら自分の「生の現場」からすべてを捉えようとする)「独我論」と同義で、かつ(知覚という「私が生きている現場」を重視する)「経験主義」とも同義である。
 自らの死を体験した独我論者・大森荘蔵は、どこかでまだ哲学を続けているのではないだろうか。それは、おそらく「自我」をめぐる問い、われわれは、いや私は「自我」をどのように了解しているか、をめぐる哲学だろう。(もしかすると、本書での弟子・野矢茂樹による「噛みつき」こそが、死後における哲学の存在様式なのかもしれない。)