最近買った本─吉行淳之介『夕暮まで』ほか

 ある若い人が最近、吉行淳之介の文体に惹かれるものを感じたので読んでみたいと思っていると話してくれた。
 吉行の作品は学生時代のある時期、かなり熱心に集中して読んだことがあって、もう題名はほとんど忘れたけれども長中短篇の小説の世界には孤独や憂愁や寂寥の気分が濃く立ちこめていてその極上の読後感の余韻が今でも幽かに残っている。「軽薄のすすめ」(これくらいしか名前を覚えていない)ほかのエッセイや対談も面白くてけっこうたくさん読んだと記憶している。


 吉行淳之介をめぐっていくつか思い浮かぶことがあった。たとえば村上春樹のデビュー作を吉行淳之介が高く評価し、その村上が『若い読者のための短編小説案内』で吉行の「水の畔り」を取りあげていたこと。(そしてその「水の畔り」が、村上の短篇集『神の子どもたちはみな踊る』に収められた「UFOが釧路に降りる」に通じているのではないかと思ったこと。)
 またつい先日読み終えたばかりの丸谷才一著『樹液そして果実』に収録された「『暗室』とその方法」という文章(「中央公論」1994年9月号に掲載されたもの、ちなみに吉行は1994年7月26日に死去)に、戦後はじめて出来た東大英文科卒業生・在学生・休学者の名簿が夏目金之助ではじまり吉行淳之介で終わっていたと紹介されていたこと。そして吉行の作品から一冊だけあげるなら「暗室」だろう、その主題は「誕生と交合と死によつて規定されてゐるわれわれの人生、この厄介なものの厄介さ」であって、この作品の「実に独創的な方法」に先行するものとしては「断章が無雑作にはふり出されて、脈絡があるみたいでもあるし、ないやうでもある」趣をもった「伊勢物語」が心に浮かぶと書かれていたこと。「そして吉行さんの文学に王朝の色好みに通じるものがあるといふのは、かなりの人の認めるところだらう。」
 ついでに書き足しておくと「暗室」は同じ随筆仕立ての小説でも「墨東綺譚」の遥か上をいき、もう一つの随筆体小説、川端康成の「禽獣」は短篇なので比較はしないが、川端のいわゆる「末期の眼」とは違うずっと成熟したゆったりしたものの見方を吉行の描く小説家(「暗室」の語り手兼主人公の中田)に感じると書かれていたこと。
 さらにさらに書き加えておくと「人はよく吉行淳之介の作品に濛々とたちこめる死と虚無の匂ひについて言ふ。もちろんそれは正しい。しかし、たとへば孤独の深さを味はひつくすためには社交の達人であることが必要なやうに、死と虚無をよく知るならば生きることへの意志を持つてしまふだらう。」云々の作家評にふれて、かつて座談の名手と呼ばれ艶福家(と言うと少しニュアンスが違う、女性遍歴者か)として鳴らし「腿(もも)尻三年、胸八年」(ネット上には「桃尻三年、乳八年」とか「モモ膝三年、尻八年」などの諸説あり)なる名言を吐いた生前の吉行淳之介の顔かたちが思い浮かんできた。
 要するにかつて憧れ痺れた吉行淳之介の文章をそろそろ再読してみるかと思い始めていた矢先だった。
 吉行の名を聞いた時それらのことが一気に心中に浮かんできたのだが、なぜだがそれを口にするのは話を合わせて迎合しているように思われはしまいかと躊躇われ話題はそのうちほかへ流れていった。
 社会人になってから吉行の文章を読むことは絶えた。思い起こせば就職した年に刊行されたのが『夕暮まで』だった。まずこの(流行語を生んで評判になった)未読の作品から読んでみることにした。
 その若い人が読んでいるというので『子供の領分』も買い置きした。ここに収められた短篇はもしかしたら読んでいるかもしれない。


 これは後日談だが、その同じ人から梨木香歩にもはまっていると聞かされて再度驚いた。というのもこの春先、大阪勤務になった記念にというか近づきのしるしに大阪で建築事務所を開いている同年齢の親戚と仕事帰りに一杯やって別れ際によかったら読んでみてと渡されたのが梨木香歩の『家守綺譚』。
 基本的に人が薦める本を素直に読めない性質(たち)なのだがこの作者には妙にそそられるものを感じて、機会があれば読む待機本に分類して常備しておいた。これを機会に読んでみようと思っているが、しかしここまで偶然の一致が続くとちょっと怖い。
 以上の話とは関係なく、昔愛読した作家の作品を時を隔てて読みかえすのは読書の歓び、醍醐味これに尽きることだと思う。
 いま学生の頃の印象深い作家や作品を思い浮かぶまま挙げてみると、高見順(『嫌な感じ』や『如何なる星の下に』)、石川淳(評論、夷齊もののエッセイ)、五木寛之野坂昭如。そして吉行淳之介から開高健へ移ろい名作『夏の闇』にめぐりあった。


     ※
 吉行淳之介のことを話してくれた人との会話のなかで、原発と自動車は同じかということが話題になった。原子力発電所の電気を使うのと自動車を利用するのとは同じことだという意見に、いやそれは違うんじゃないかなと咄嗟に応じたものの、なぜどうして「違う」のかは自分でもよく分からなかった。
 その時は『大津波原発』で読んだ中沢新一さんの「原発=神殿」説をもちだして、原子力を制御するのは一神教の神を制御するほどに難しいことなのだから云々と我ながら訳の分からない話でお茶を濁した。
 後から考えたのは、第一に自動車を利用するかどうかは個人の判断で選択できるが原発はそうではない、第二に簡単で便利な高速移動手段は自動車しかないが電力を安定的に供給する方法は原発だけではない、第三に自動車の原理や技術の基本は確立しているが原発の制御はそうではない(原理的にも技術的にも未知の領域が多すぎる)の三点だった。
 第二、第三の点はあまり自信がない。特に第三の理由はほんとうにそうなのかよく分からない。このことを考えたいと思って、『大津波原発』のもとになったラジオデイズでの内田樹平川克美との鼎談「いま、日本に何が起きているのか?」が配信された4月5日の翌日から書き始められたという『日本の大転換』を読むことにした。
 中沢新一さんは「パンフレット」と呼んでいる。パフレットといえば「共産党宣言」を想起する。本書は、鼎談で「「緑の党」みたいなもの」の立ち上げを宣言した著者が最後に約束した「宣言と綱領」にあたるものだと思う。


 田口本(『ヒロシマナガサキ、フクシマ──原子力を受け入れた日本』)は中沢本を買おうと思っていた日の朝、新聞広告でふと目にとまったので併せて購入した。
 ひと頃は「好きな作家は?」と問われれば「村上春樹保坂和志田口ランディ」と答えることに決めていた(一度だけ聞かれたことがある)。しばらく遠ざかっていたものの、最近関心が高まってきていた。