言いたいと思っていること

 ヘーゲル精神現象学』(長谷川宏訳、作品社/1998年3月)の第一章「感覚的確信──「目の前のこれ」と「思いこみ」」から。


《わたしたちは感覚的なものを一般的なものとして表現してもいるわけで、わたしたちのいう「このもの」は「一般的なこのもの」であり、「それがある」というのは一般的な「ある」をいっているのである。むろん、その場合、わたしたちが思い浮かべているいるのは一般的な「このもの」や一般的な「ある」ではないが、表現するものは一般的なものである。ということは、感覚的確信のもとに思いこんでいることをそのまま表現してはいない、ということだ。が、いうまでもなく、ことばと感覚的確信を並べたとき、真理はことばのほうにあるのであって、ことばに身を寄せれば、自分の思いこみはきっぱり否定するしかない。そして、一般的なものが感覚的確信の真理であり、ことばが一般的な真理だけを表現するものとすれば、わたしたちの思いこむ感覚的な「ある」を、そのつどいいあらわすのは不可能だということになる。》(『精神現象学』69頁)


 これと同じ文章を、ジョルジュ・アガンベン『言葉と死──否定性の場所にかんするゼミナール』(上村忠男訳、筑摩書房/2009年11月)から孫引きする。(【】内は原文では付点で強調。)
 ちなみに、『精神現象学』第一章の章名は、アガンベン本では「感覚的確信、あるいは〈このもの〉および言いたいとおもっていること」となっている。


《わたしたちは感覚的なものをも一般的なものとして【言葉で表現する】。そして、わたしたちが言葉で表現するものが【存在する】のである。〈このもの〉とはすなわち【一般的な】〈【このもの】〉のことである。あるいは、〈それが存在する〉(es ist)とはすなわち〈【存在する】〉【一般】のことなのだ。その場合、もちろん、わたしたちはその一般的な〈このもの〉、あるいは〈存在する〉一般をわたしたちの前に【表象している】(vorstellen)のではなくて、一般的なものを【言葉で表現している】(aussprechen)のである。いいかえるなら、わたしたちはそれをわたしたちが感覚的確信のなかで【言いたいとおもっている】(meinen)とおりのままには言っていないのである。しかしながら、見られるように、言葉で表現されたもののほうが[言いたいとおもっていることよりも]いっそう真なるものである。言葉のなかでは、わたしたちは直接にわたしたちの【言いたいとおもっていること】(unsere Meinung)に背く。そして、一般的なものが感覚的確信の真理であり、言葉はこの真理を表現しているにすぎないのであるから、わたしたちが言いたいとおもっている(meinen)感覚的な存在を言葉にして表現する(sagen)ことができるなどということは、とうていありえないのだ。》(『言葉と死』36-37頁)


 文中の「meinen」に付された訳注。「“meinen”は、わが国のヘーゲル研究者のあいだでは通常「思いこんでいること」と訳されるが、アガンベンはこれに“volere-dire[言いたいとおもっていること]”という訳語をあてている。」
 “volere-dire”はフランス語では“vouloir-dire”で、この語は、以前(2007年1月23日)引いた木村敏氏の「日本語で哲学するということ」という文章(坂部恵第3巻月報)で知った。