非人称の「意味するのを欲する」こと

 互盛央著『フェルディナン・ド・ソシュール──〈言語学〉の孤独、「一般言語学」の夢』(作品社、2009年7月)を拾い読みしていて、印象に残ったところを一つ。
安藤礼二さんがいう「表現」にも、大いに関係するところがあると思うので。)


 本書の最後で、ソシュールヴァレリーが「一つの代名詞の下で再び交錯する」。その代名詞とは、ヴァレリーが「フランス語だけがもつこの見事な語」と呼んだ“on”のことだ。


「フランス語だけがもつこの見事な語ON──それが誰であれ、単数で複数、男性で女性──は、かつてはそうだったが、Homme ではない。というのも、ONはHomme であるよりは、むしろ次に来る動詞を可能にし、その動詞によって定義される人称主語だからである。」


 この引用に続く互盛央さんの文章。


ポール・ヴァレリーがそう記したのは、一九三一年の『カイエ』である。代名詞onは男性でも女性でもある。あるいは男性でも女性でもない。それは「男性」と「女性」の対が成立する「人間(Homme)」より前にある。単数でも複数でもあり、単数でも複数でもないonは、「単数」と「複数」の対が成立する「主語(sujet)」より前、それゆえ暗黙に「人間」以外を排除する「主体(sujet)」の外にある。「次に来る動詞」によって「定義される」主語の位置に立つonは、その動詞に先行して存在していた主語はないことを示し、すり替えを行う「見せかけの肯定」に陥ることなく言述[ディスクール]という〈意志〉を表示する代名詞なのだ。》


 ソシュールヴァレリーの「交錯」とは、ソシュール晩年の草稿に、「言語[ラング]の中の自由に使える辞項を使って人が何かを意味するのを欲する、という考えを私たちがもつには何が必要か。」云々とあるのを踏まえている。


《「人が何かを意味するのを欲する」──それが言述[ディスクール]を言語[ラング]から分かつ。ただ「意味する」のではなく、「意味するのを欲する」こと。「欲する」の主語にフランス語で不特定の人を表す代名詞onが使われているのは気紛れな選択ではない。特定の「語る主体」の行為である以外にないパロールの向こう側に言語[ラング]が想定されるとき、そこには、いつもすでに非人称の「意味するのを欲する」ことがある。言述は、いつもすでに言語[ラング]とパロールの対に先行しているのだ。》