性愛と墓地、観念をモノ化するマテリアリズムの力

 中沢新一さんの「大阪アースダイバー」が週刊現代に連載されていて、時々、読んでいる。
 「どじょう野田を操る「本当の総理」勝栄二郎」という記事を読みたくて買った10月8日号は、「土はすばらしいマテリアリスト(唯物論者)である。」に始まる第42回「墓場とラブホテル(1)」。
 これが、とびきり面白かった。


 土は、生きているあいだ、感情や思考や観念をわきたたせていた身体を分解するマテリアリストである。
 同時に、「人が粘土をこねて、人形をつくると、ただの土くれに息が吹き込まれ、感情をもっているかのような、不思議な存在へと変貌していくように」、非生命に生命を吹き込む「偉大なるアニミスト」でもある。
 「大阪ではその土が、上町[うえまち]台地の崖に露頭していた。」
 瓦屋町から松屋町筋にかけて、「アニミズムのお使い」である人形づくりたちが、たくさん住み着いていた。
 上町台地の西方の崖に沿って広がる広大な寺町。秀吉の時代、ここが寺町と定められるずっと以前から、崖沿いの傾斜地は墓地だった。
 その墓地地帯の一角が、大阪市内きってのラブホテル街となっている。
 それは、古代の「アニミズムの元締め」のような強力な神霊をまつる生玉神社の界隈である。
 「ここでは、モノに霊力を宿らせるアニミズムと、生命あるものをただのモノに連れ戻そうとするマテリアリズムが、ひとつになっている。」


《なぜ、恋人や擬似恋人は、こんな場所で愛を交わすのを好むのか。
 秘密を解く鍵は、大阪の生んだ天才、近松門左衛門の心中物のなかにひそんでいる。死に向かって突き進む恋人たちが、死に場所求めてさまよう道行きのロケーションは、しばしば深い森であったり、墓地であったりする。もうすぐ、二人は自分の命を絶って、静かなモノの世界に入っていこうとしている。二人をそこへ導いていったのは、世の掟に許されない性愛の歓喜だった。愛というよりもそれは恋であり、たがいを恋いこがれる衝動に、我が身を投じていった果てに、二人は生命と価値を飲み込んでいく死に、飛び込んでいった。
 性愛には、愛を物質に突き戻してしまう、マテリアリズムの力がひそんでいる。愛はことばの力によって支えられている。ことばは強力だけれど、かならず語りつくせない空虚をつくりだしてしまう。空虚はことばの運命なのだ。そこで、愛のことばがつくりだすその空虚を埋めようとして、二人は性愛の行為を執りおこなう。二人はそのとき、モノに変化していこうとしている。モノに向かうことで、観念が埋めることのできない空虚を満たそうとしている。
 墓地とセックスは、だからもともととてもよく似た構造をしていることになる。どちらも、観念を無化してモノ化してしまう、マテリアリズムの力を秘めている。人形から墓地へ、そして墓地に囲まれたラブホテルへ。上町台地西崖沿いには、一つの、一貫したテーマが、展開されている。その一貫したテーマを、奥底で支えているのは、崖に露出した土のはらむ、マテリアリズムの力である。》


 近松の心中物が人形によって演じられたこと。ことば(がつくりだす空虚)が性愛の歓喜をもたらすこと。