【國男・哲郎・清】子供を連れ去る仮面神

 昨日書いたことと関連して、中沢新一の「映画としての宗教 第三回 イメージの富と悪」(『群像』5月号)に、とても興味深い話題がでてくる。
 マルセス・モースの『贈与論』に取りあげられたアメリカ先住民のポトラッチ(贈与のお祭り)で、ホスト役の首長の手によって破壊されたり、海に投げ込まれてしまう「お返しもできないほどに貴重な品物」は、表面に何かの顔のようなイメージが打ち出された銅版である。
 中沢氏はこの銅版を、「交換にとっての貨幣」ではなく「贈与にとっての貨幣」である「原初的な貨幣」もしくは「潜在的な貨幣」と呼び、「映画としての宗教」で提起されたイメージの考古学でいうところの、「有」と「無」のインターフェイス(物質的境界面)に出現し消滅する「イメージ第二群」に関連づけている。
 ところで、レヴィ=ストロースは『仮面の道』で、銅版のイメージは、この地域で大きな意味を与えられている「スワイフウェ」や「ゾノクワ」などの仮面神と深い関係を持っているのではないかと述べている。


《スワイフウェやゾノクワという仮面神と原貨幣である銅版とが、隠喩的に結びつけられている道筋を理解するのは、それほど困難ではありません。これらの仮面神の住処は、湖底とも山中深くとも言われますが、いずれにしても人間の生きる世界の縁にあたる部分の境界地帯、あるいはその外の暗い領域であると考えられています。そこは死者の住む世界でもあるのですが、同時にあらゆる富の源泉の場所でもあります。スワイフウェやゾノクワはそこに隠されている富と財宝を守っているのです。
 現実世界の富や幸運は、これらの仮面神の管理下にあるこの暗い潜在空間から、人間のもとにもたらされます。潜在空間に眠っているあいだ、富も財宝もまだ「無」の状態にあります。ところが仮面神を仲立ち(インターフェイス)として、潜在空間を出て富が現実世界にあらわれてくるとき、「無」は「有」に転換することになります。そのために、「無」と「有」の中間のどっちつかずの状態にいる者は、仮面神の接近を許しやすいと言えます。とくにゾノクワ女神(この仮面神は女性の神だと言われています)などは、山や森の奥から豊かな富をもたらしてくれる女神でありながら、先住民の村から子供をさらっていってしまう恐ろしい山姥でもあるのです。
 仮面のイメージを打ち出した銅版と比較してみますと、両者の密接なつながりがあきらかになってきます。最大の貴重品である銅版は、社会的な富の「有」を支える贈与の環を抜け出して、「無」であると同時に「無尽蔵」でもある海中に飛び込んでいこうとしていますが、仮面神はその逆に「無」であり「無尽蔵」である海や湖の底から、社会的な価値を持った富を引き出してくると同時に、子供をさらって境界領域の向こう側に連れ去っていってしまう存在です。両者はよく似たやり方で、「有」と「無」の転換を司っているわけです。
「仮面」が山姥的女神と貴重品の銅版をつないでいます。スワイフウェやゾノクワは仮面であらわされますが、銅版は自分の顔とも言うべき場所に仮面神のイメージを打ち出すことによって、仮面と山姥と銅版とをひとつの大きなイメージ群に統合しようとしているように見受けられます。地下の財宝を守っている神々をあらわす仮面と、貨幣の原初形態である銅版とは、イメージ第二群の特徴を共有し、隠喩はそこをとらえて、両者を一つに結び合わせようとしています。このようにして仮面と貨幣は、神話的思考にとっては「同じもの」を違うやり方で表現したものである、と理解されることになります。》(372-373頁)


 冒頭の「昨日書いたこと」というのは、「神に拉致される子供」としての柳田國男和辻哲郎をめぐる話題で、これとの関連で興味深いのは、いま引いた文章に出てくる「子供を連れ去る山姥」の話だ。
 また、そこにいわれる「神話的思考」というのは「詩的思考」とたぶん同義で、実はこのことの方がもっとずっと興味深い。それは、坂部恵の「一種の境界人[マージナル・マン]」という言葉とも響き合っている。