仮面考

 昨年暮れに始まり、先週の初め頃から本格的な段階への下ごしらえと素材蒐集に取りかかったこの名前のない「作業」(「歌とクオリア」もしくは「立ち上がる〈私〉」もしくは「〈私〉という共同体」等々)を通じて、私はそもそもいったい何をやろうとしていたのだったか。そして、それが今どこまで成し遂げられ、あるいはまだやり終えていないのか。これらのことを中間的に整理・総括しておかないと、話が「佳境」もしくは「本題」に入る前にどんどん逸脱・拡散し、いずれは無明の世界へあわあわと消え入りかねない。それだのに、また新しい書物を買い求めてしまう。退却不能なまでに、戦線が拡大していく。


 入手したのは、岩波から刊行中の『坂部恵集』第3巻「共存・あわいのポエジー」。ここには『仮面の解釈学』に収められた論考のほとんど(他に『「ふれる」ことの哲学──人称的世界とその根底』のほとんどと『モデルニテ・バロック』の一部の論考)が収録されている。
 『仮面の解釈学』はつごう二冊所持している。二つにわかれた「書庫」(現在では三つになった)のいずこに収納したものか、いくら探しても見つけられず、とうとう二冊目を買って読み始めたらすぐにみつかった。二冊も揃えているのに、この書物はどうしても読み通せない。あまりに眩い光を放ち、うかうか読み進めると眼がつぶれる。新しい装丁と編集のもとで、今度こそ読み通せるかもしれない。
 とりあえず、あとがきと月報と単行本未収録の講演録「仮面の解釈学──時と影のたわむれ」に目を通した。もう眩暈の予感が漂っている。(たまらなくなって、既刊の著作集第2巻「思想史の余白に」、第1巻「生成するカント像」をつづけて買ってしまった。いずれもあとがきと月報を眺めただけだが、もう来月刊行される第4巻が待ち遠しい。)


     ※
 私事を一つ。かつて、かれこれ7年ほど昔のこと、「仮面考」という論考に向けた下ごしらえと素材蒐集に夢中になったことがある。その顛末(というか残骸)は、「音=声を通して」「顔=貌に面して」「身=実を割いて」の3回にわけてホームページに残している。以下は、その中間的な総括から。


《仮面(的なもの)の第一の機能。──器の虚ろ(空洞、あるいは細川俊夫の「母胎空間」)に音が懐胎し増幅し、通い響きあい、そして穴を通して外へと発する。無人称のものの声(根源語[Ursprache]、あるいは祈りの言葉)として?
 声は再び穴(あるいは我=割れ目)を通して侵入し、膜(鼓膜、皮膚、界面)を震わせ身に浸透する。人称をもったものの名=汝として?
 仮面(的なもの)の第二の機能。──変換作用そのものの媒介と境界の造形。仮面は自らを痕跡として可視化する。たとえば顔は虚ろな器=穴を原器とし、膜=界面をもって形象化される。それは細胞膜のように、異なる浸透圧によって物質と魂を変換する?
 顔には無数の穴がある。(無数の隙間があいたスクリーンを通って、電子は自らに干渉する、歴史の痕跡をいっさい止めずに。)また、顔は身を積分する。身は自らに折れ曲がった管=壺=椀=盤である。(マイクロ・チューブル[微小管]における量子干渉によって産出されるもの。)
 仮面(的なもの)の第三の機能。──自らに折り返した穴(虚ろ)は、器の表面を二層化する。そして虚ろによって型取られた(象られた)もの、すなわち虚中の実として産出されるもの。脳、内臓、胎児、言語、イメージ、観念、概念、自我、自己、霊的物質、魂、意識、等々。
 生殖する身、食らわれる身、死にゆく身、腐敗する身、乱舞する身、変貌する身、仮面を被る身、浮遊する身、等々。》


《情報の変換器としての仮面の機能をめぐる、新たな考察のためのメモランダム。──生殖による情報の(再)物質化と、受肉による物質の更新(新生、創造)の違いについて。
 生体を死体へと脱魂する鎮魂儀礼としての能。死体(自動機械、人形)に生命的な力(獣性、霊性)を憑衣させ生体へと変貌させる芸能としての歌舞伎。──これらは、いずれも「第二の管」(内部世界をもった管)のレベルでの出来事だ。すなわち、内部世界(有限空間=知覚[実在]世界?)と外部世界(超空間=無限空間=想起[仮想]世界?)との媒介=変換、あるいは生殖による(再)物質化と死による物質の崩壊。
 ここでの変換は、第一のレベルの管(笛)のメカニズム(声の発生)を介して遂行される。水平的変換、あるいは三次元的「厚み」での出来事。物質から生命へ、あるいは生命から物質への変換。
 神の受肉(内在)と人間の神化(超越)。──これらは、いずれも「第三の管」(心的システムをもった管)のレベルでの出来事だ。すなわち、経験的世界(=現実世界?)と超越的世界(=可能世界?)との媒介=変換、あるいは受肉による物質の更新(新生、創造)と神化による物質の廃棄。
 ここでの変換は、第二のレベルの管(弦、弓)のメカニズム(声の共鳴・合成と沈黙[=波動関数の収縮?])を介して遂行される。垂直的変換、あるいは四次元的「深み」での出来事。物質から精神=歴史へ、あるいは精神=共同体から物質への、生命を媒介とした変換。
 しかし、ここでいう「物質−(生命)−精神」の変換プロセスは容易にその垂直性を喪失し、「物質−生命」の変換プロセスへと崩壊するだろう。というのも、受肉の思想は絶えざる緊張関係に支えられなければ、憑依の思想(というより憑衣感覚)や輪廻転生の思想へと推移する傾向にあるからだ。とりわけ精神が、共同体意識に呪縛された霊性(≒生命)のレベルにとどまっている場合。
 ここで、第三の変換を考えることができるかもしれない。──精神を生命(≒霊性)のレベルではなく「意識」のレベルへと「高める」ことによって、物質と精神を媒介する変換。すなわち、「第一の管」(二つの穴をもつ管、あるいは多孔体)のレベルでの出来事。第三のレベルの管のメカニズム(たとえば、夢?)を介して遂行される変換。(しかしここでもまた、それがいったいどのような変換なのかいまだ思考途上ゆえ、いまはこれ以上書くことができない。)》


 自分が書いたものなのに、ほとんど理解できない。判じ物のようだ。ただ、これらの文章を書いていた時の身体感覚(不可思議の実在の変幻極まりない動きに今まさに触れているのだという確かな実感=妄想につきうごかされて、私がこれを書いているのか、そのものによって私が書かされているのかを区別することが「私には」もはやできない、といった)の余韻のようなものは甦ってくる。
 仮面的なものをめぐる三つの機能は、言葉の働きを、言葉による表現が生み出すものを指向している。じっさい、仮面考第4回のタイトルは「名=徴を超えて」というものになる予定だった。それはまた、「仮面の記号論」という未完の(というより、未だ着手できていない)論考の仕上げへとつながるものであった。(さらには、言葉が物質そのものを産み出していく不可思議な表現(変換)の世界へと向かうはずだった。いまの私はそれを、そのような不可思議な事態をめぐる実証的考察のフィールドを、定家を極相とする歌論の世界に見いだしている。)


 ここまで思考をめぐらせたとき、『仮面の解釈学』が、もうとうの昔からそのはるか先に屹立していたことに思いあたった。迂闊なことだった。
 坂部恵の「仮面考」は、二重性の相のもとに造形されている。同じもの(同一と思われているもの)のうちにズレを生み出し、同時にこのズレを媒介するはたらきが仮面である。「共存・あわい」という著作集第3巻の副題が、そのことを示している。とりわけ坂部によって“Betweenness-Encounter”と英訳された「あわい」という語が、ことの実相をもののみごとに言い表している。
 それはまた郡司ペギオ−幸夫が『生きていることの科学』で論じた「マテリアル」の概念そのものでもある。私が「仮面的なもの」のうちに見ようとした機能やその質量性そのものである。であるならば、何もつたない思索を重ねることはない。『仮面の解釈学』という書物に深く沈潜することでもって、言い換えれば、他者の言葉のうちに自らの思索を結実させてみること(あるいは他者の思索を幻聴の声として聞くこと?)で足りるではないか。こうして、私の「仮面考」は中断し、今に至っている。