日本語で哲学するということ

 昨日は思わず私事に走ってしまった。本来の話題にもどす。本来の話題とは、すでに二冊もっている『仮面の解釈学』に収められた論考のほとんどを収録した『坂部恵集』第3巻を購入したこと、とりあえず著者によるあとがきと月報と論考一篇に目を通し、軽い眩暈に襲われたことだった。
(いや、ほんとうの「本来の話題」は、当面の無名かつ無明の「作業」の着地点をみつけることだった。ところが、着地点を踏んだと思ったら、それが実はスプリング・ボードで、さらに戦線が拡大してしまったというわけだった。未完の「仮面考」を組み込んだもう一つ先の着地点。それを「クオリアとペルソナ」とでも仮に命名しておくか。)
 あとがきに二人の人物の名が出てくる。林達夫武満徹林達夫について、坂部恵は「敬愛するこの「精神史」の先達」とか「今でも氏の「弟子」でありたいと念じつづけている」と書いている(林達夫熱再来の予感)。以下は、武満徹について書かれた文章。


《「〈おもて〉の解釈学試論」を書いている時から、わたくしには武満徹が音楽でしたことをことばの世界でしてみたいという思いがつねにあった。繊細な精神と感覚で和学と洋楽を競い合わせ、並び立たせる武満の孤絶の営為には、日本語と西欧の哲学の最新の方法をつなぎ合わせるにあたって範とすべき無限のヒントがかくされているようにおもわれたからである。》


 著作集第2巻「精神史の余白に」のあとがきには、「わたくしのカント読解の歩みは、あえて僭越を承知でいえば、あたかもグレン・グールドの弾くバッハのごとくに、従来の定型的なスタイルを思い切ってはずす破格な解釈の提示を目指して進められてきた」と書いてある。
 武満徹が音楽でしたことをことばの世界でする。グレン・グールドの弾くバッハのごとき破格な解釈を提示する。どちらも魅力的な言い回しだが、ここでは「ことばの世界」での営為、つまり哲学に関して、第3巻の月報に木村敏が寄せた「日本語で哲学するということ」を取り上げる。
 この小文は実に見事なもので、坂部哲学の質感を生々しく伝え、あまつさえ発酵しつづける木村哲学のエッセンスの残り香を漂わせている。あまりに見事なので、抜き書きではなく全文を引用する。


《哲学する、あるいは哲学的にものを考えるとき、ことばがそこで果たす役割について、すこしばかり考えてみたい。坂部恵さんという、西洋の哲学を学んで西洋の哲学についての広い学殖をもつ哲学者が、意識的に日本語で哲学しようとする、その姿勢にわたしはかねてから大きな敬意を抱いていて、その坂部さんの著作集に添える月報の話題としては、ことばの問題が一番ふさわしいように思えたからである。
 「哲学する」という言いまわしが、哲学という名の学問に従事するという以上の、むしろそれがなければ哲学が哲学にならないような基本的な姿勢を指していること、これはすでに言い古されたことだから、あらためて書くまでもないだろう。ただ念のために一言いっておくと、哲学するというのは、狭い意味での哲学を哲学として成り立たせているだけでなく、もっと広い意味で、あらゆる知的な営為について言いうるような、思索的な態度のことである。たとえば医学においても物理学においても、建築についても音楽についても、ひとはすぐれた意味で哲学的にものを考えることができる。
 ものを考える場合に、ことばがどんな役割を果たすのか、考えた内容をことばで表現するだけでなく、なにかを考えるためにはすでにことばが必要なのか、ことばで言い表せないような考えというものがありうるのか、そういった問題はすべて独自の哲学的な問題になっていて、古来、多くの議論が交わされてきたことがらだから、門外漢のわたしが口を差し挟む余地はほとんど残されていない。精神科医としてのわたしが、これまでの議論ではおそらくほとんど取り上げられてこなかったであろう側面から、ことばと思考の関係について発言することも、無意味ではないだろう。
 統合失調症と呼ばれる精神科の病気がある。すこし前までは精神分裂症と呼ばれていた。この病気になると、健常者がふつうの日常生活では経験しないような、だから正常な論理では理解しにくい病的な心理現象がいろいろと現れる。そういった症状のひとつに、以前から「思考伝播」と名づけられてきたものがある。これはドイツ語の Gedankenausbreitung を訳したもので、英語だと thought broadcasting、フランス語では vol de la pencee' などと呼ばれたりする。この症状を持つ人は、自分の思ったことが、口に出してしゃべらなくても他人に伝わってしまう、だからいつも周りの人たちに自分の心を見透かされている、テレビを見ていても、アナウンサーが自分の考えを知っていて、それを皮肉るようなことをいう、などという体験をわれわれに語ってくれる。
 しかしそういう患者の話をじっくり聴いてみると、そこで自分の内部から抜け出して相手に伝わると彼が感じているものは、実はまだ言語的に分節された「考え」になっていないらしいことがわかる。それはまだことばにならない、ことば以前の意向というか、こころの動きのようなものであるらしい。つまりこの症状は、自分のすでに考えたことが相手に伝わるというのではなく、自分の言いたいこと、自分の考えようとしていることが、先回りして相手にそのまま漏れてしまっている、自分の「思い」を他人が先手を打って「考えて」いる、とでもいうより仕方のないような、説明の非常に困難な構造をもっている。
 自分の思いを他人が横取りしているというこの奇妙な構造は、統合失調症の代表的な症状である幻聴の場合にも認められる。他人が自分の行動をいちいち指図したり、自分の意図を論評したりする声を幻聴として聞いている患者は、その声の主の言っていることがまさに彼の図星をついているという。もちろんこの指図や論評は患者自身の意図が言語化されたものなのだから、図星をついているのは当然なのだが、問題は彼がこの言語化の発生する場所を、自分ではなく他人だと体験している点にある。
 もうひとつ例を挙げると、本を読んでいるとき、いつもだれかが数語先を音読している声が聞こえるという人もいる。われわれは印刷された文章を読む場合、それを文字言語として一語一語拾って意識する前に、それにいわば一瞬先だって、まずその意味だけを捉えてしまうのが普通なのではないか。すらすら読める文章を校正して誤植を発見するのが難しいのも、そのためだろう。意味とことばとのこのズレ、この時間差が、自分自身の内部で起こるのでなく、自分と他人とのあいだに起こったこととして意識されるのが、この症状である。
 精神病という極限状態では、ことばとその意味がこのように完全に乖離することがある。自分のものか他人のものかという、その所属が別々になりうるだけでなく、時間的にもそこに微妙な差異が発生しうる。意味がことばに先行するというのが原則なのだが、これも患者の話をよく聞いてみると、ことば以前に発動しているこころの動きをそのまま意味と名づけるのは、早計に過ぎるのではないかとも思われる。幻聴で図星を指されたという患者のなかには、自分の真意を相手の声によってはじめて教えられたと感じる人もいるからである。ことば以前のこころの動きは、意味以前であるのかもしれない。
 シニフィアンシニフィエという言い方をすると、現在分詞の signifiant のほうが過去分詞の signifie' に先行している格好になっているし、事実、われわれがひとの話を聞いたり書かれたものを読んだりするときには、シニフィアンがまず与えられて、シニフィエはそれについてくるものなのだが、自分の考えを話したり書いたりする場合だと、シニフィアンがそこから出てくる源泉のようなものが、シニフィエとは別の次元に存在していると考えざるをえない。統合失調症の患者では、この源泉の自己所属性が不明確になって、それが──幻聴ではそれに伴ってシニフィアン自体も──自分以外の場所で発生するかのように体験されるのである。
 フランス語でことばの「意味」ということをいうときに、sens とか signification とかのほかに、「言いたい」「言おうとする」という動詞をそのまま使った vouloir-dire という言い方があるのは、たいへん示唆に富む。ヴロワール・ディールというこの動詞は、まさにことばがそこから出てくる源泉として、シニフィアンシニフィエ複合以前のこころの動きを的確に表現していると思うからである。「思考伝播」で他人に洩れるもの、幻聴で他人に先取りされているもの、それはこのヴロワール・ディール以外のなにものでもないのではないか。
 哲学の勉強は、哲学の書物を読むことから始まる。日本で哲学といえばだいたいは西洋の哲学をさしているから、それを学ぶためには、ギリシア以来の西洋人が日本語ではない外国語で書いてきた書物を読まなくてはならない。そこでわれわれは当然、辞書を引く。しかし辞書に書いてあるのは語義、signification だけである。その著者がそこでなにを言いたかったのか、なにを言おうとしているのか、そのヴロワール・ディールは、全体の文脈から推測する以外にない。しかもこのヴロワール・ディールこそ、哲学者が哲学的にものを考える、その考えの切っ先になっているはずのものなのである。
 だからたとえばハイデガー以後の哲学者が Sein とか l'etre とか書いているのを読んだとき、これを一概に「存在」の語で置き換えて、この語の哲学事典的な語義だけでそれを理解することができるのか、それこそ大問題だろう。その背後には、日本語だと「ある」と「いる」、「がある」と「である」。その他のさまざまなことばがそこから生み出されるような、あるいは「存在するとは違った仕方で」「存在する」といわざるをえないような、そんなヴロワール・ディールが隠されているかもしれないのだから。
 しかし、ハイデガーが Sein ということばをあれほど執拗に、綿密に考えぬいたからこそ、われわれはそれに置き換わりうる日本語について、それがどのような意味で、どのようなヴロワール・ディールのときに使われるのかを教えられたともいえるだろう。ちょうど、幻聴の声を聞いてはじめて自分の真意を教えられたという患者の場合のように。ヴロワール・ディールは、ことばがそこから語り出される源泉である。しかしそれは、ことばが語り出されてはじめて意味として限定されるような、本来無限定で意味以前のものでもあるだろう。そしてこのヴロワール・ディールは、それが意味にまで限定されることによって、はじめてシニフィアンとしてシニフィエに貼りついて、著者の真意を読者に伝える通路となりうる。
 われわれがどのようなこころの状態におかれたときに、どのようなヴロワール・ディールが発動されて、そこからどのようなことばが語り出されるのか、それを日本語の、ごく日常的に用いられていることばのかずかずから読み解こうとする作業、坂部さんのこのお仕事は、哲学するということのもっとも基底的な作業にほかならないだろう。》