他者の思考を幻聴の声として聞くこと

 一昨日、全文引用した木村敏の「日本語で哲学するということ」(『坂部恵集』第3巻月報に掲載)は、何度読み返してみても飽きることがない。実に使い勝手がよくて、いくらでも応用がききそう(もしくは、この論考を安全基地として連想と妄想を恣にすることができそう)である。
 ただ、そこに書かれていること自体は、要約してしまうと実に簡単なものだ。以下、適当に言葉を継ぎ足し「補足」しながら、後々の汎用性を考えた勝手な「縮約」(あるいは創造的誤読もしくは誤訳ならぬ想像的「誤約」とでも?)を施しておく。


【1】
 言葉と思考の関係は「ヴロワール・ディール(言葉による表現以前の無限定な思考)─シニフィアン(文字・音声記号としての言葉)─シニフィエ(言葉によって表現=限定された思考)」であらわされる。
 通常シニフィアンシニフィエは結合してシーニュ(記号)となるので、この「V−Sa−Se」の三項関係は正確には「V−Sa・Se」もしくは「V−S」の二項関係に、より厳密には(V以前とS以後を組み入れて)「ある心の状態─ヴロワール・ディール(Saがそこから生まれる源泉としての心の動き)の発動─言葉の語り出し(Sa・Se結合の提示)─言葉を通路とする思考(言葉が語り出されて初めて意味として限定される真意=V)の伝達」の四項関係(拡大V−S関係)に変換される。


【余録1】
 言葉による分節以前の思考(V)を「生命論的、生命哲学的な文脈」に置き換えると「父母未生以前」(もしくは「前世」?)になるのかもしれない。そうだとすると、文字・音声記号としての言葉(Sa)は「子の身体」に、言葉によって表現=限定された思考(Se)は「子の心(魂)」にそれぞれ置き換えることができるかもしれない。
 もしそうだとすると、上記の四項関係は「生命物質─父母未生以前─身心結合─心(魂)の伝達」となる? あるいは「絶対無─私と汝─私─死後の生」もしくは「物質─生命(霊性)─精神(言葉)─意識(魂)」となる?


【2】
 ところで、「V−Sa−Se」の三項関係のうちには時間のズレがある。言葉を書き話す場合、通常は「V→Sa→Se」、つまり思考(V)が言葉(Sa・Se)に先行すると考えられている。しかし実際の体験としては、人は言葉を書き話すこと(Saに貼りついたSeを提示=意識すること)ではじめて自分の思考(V)を知る(「Sa→Se→V」)。
 統合失調症の症状においては、この時間のズレに応じて言葉と思考をめぐる三項関係に歪みが生じ(「V−Sa−Se」⇒「Sa−V’」;ここで「V’」は「Vと取り違えられたSe」のこと)、かつ、そのズレが自分自身の内部にではなく他者(自分以外の場所)との間に起こったこととして意識される。たとえば、思考伝播では他人に洩れるもの(V’)が他者に所属し、さらに幻聴においては、他人に先取りされるもの(V’)だけでなくそれに伴う言葉(Sa)までもが他者に所属するものとして体験される。


【補遺1】
 言葉を読み聞く場合にもこれと同様の事態が生じている。(ただしこの場合、言葉と思考の関係は、思考Vが他者に所属するものであることから、「V−Sa−Se」が「Sa−Se−V」に変換される。Saは元来他者に発するものであるが、読み聞かれたとたん読み手・聞き手に所属する。Seについては微妙である。書き手・話し手、読み手・聞き手に両属する公共的なものと考えてもよい。この点は、言葉を書き話す場合と同断である。)
 言葉を読み聞く場合、通常は言葉(Sa)がその言葉によって表現された他者の思考(Se)の理解に先行すると考えられている。あるいは、表現された言葉(Sa・Se)の全体の文脈から他者が本当に伝えたかった思考(V)を推測するものと考えられている。しかし実際の体験としては、人は言葉(Sa)を読み聞くのに一瞬先んじて他者の思考(Se)を知る。あるいは、言葉(Sa・Se)による表現全体を見てとるのに一瞬先んじて他者の思考(V)をすでに知っている(推測によらず他者の思考が伝わっている)。
 統合失調症の症状においては、この時間のズレに応じて言葉と思考をめぐる三項関係に歪みが生じ(「Sa−Se−V」⇒「Se−Sa」あるいは「V’−Sa」)、かつ、そのズレが自分自身の内部にではなく他者(自分以外の場所)との間に起こったこととして意識される。たとえば、「本を読んでいるとき、いつもだれかが数語先を音読している声が聞こえる」という症状の場合には、Saが他者(その言葉を書き話す他者であるとはかぎらない)に所属するものとして体験される。それだけでなくSeもしくはV’(正確には、読み手・聞き手によって理解されたSeもしくは推測されたV’)までもが他者に所属するものとして体験される症状があるかもしれない。


【補遺2】
 言葉を書き話すことと読み聞くこととの関係があやしくなってくる。言葉を書き話すとき、人はその言葉を読み聞いている(言葉を読み話すことで、人ははじめて自らの思考をあたかも他者の思考であるかのごとく知る)。言葉を読み聞くとき、人はその言葉を書き話している(言葉を読み聞くより前に、人は他者の思考をあたかも自らの思考であるかのごとく知っている)。言葉を書き話すことと読み聞くことは相互に入れ子になっている。自己と他者の区分が、思考の所属先が定まらなくなっていく。
 個体発生と系統発生の関係になぞらえるならば、言葉を読み聞くこと(他者の思考を知ること)が書き話すこと(自ら思考すること)に先行している。人は他者の言葉を読み聞くこと、とりわけ聞くこと──「神々の声」(ジュリアン・ジェインズ)であれ「他者の語らい」(ラカン)であれ(ただし、それはまだ「言葉」ではない)──を通じて言葉の世界に参入するのであって、生まれながらにして言葉を書き話す(自ら思考する)主体ではないからである。釈迦のように、誕生と同時に「天上天下唯我独尊」などと発語する人はいない。
 ただ、人は読み聞く主体(とりわけ聞く主体)として生まれるという言い方をすると、それは間違っている。読み聞くことは書き話すこととの(相互入れ子式の)関係のうちにしか成り立たないからである。自己の思考と他者の思考との(相互入れ子式の)関係と「思考主体」の成立とはパラレルだからである。
 言葉を書き話すことと読み聞くことが相互入れ子式の関係を取り結ぶということは、言葉が言葉として誕生すること(人が日常生活において意味のある言葉を使用できるようになること)と同断である。自己の思考と他者の思考とが相互入れ子式の関係を取り結ぶということは、思考主体が誕生すること(人が日常生活において意味のある思考ができるようになること)と同断である。


【余録2】
 ジュリアン・ジェインズは『神々の沈黙』で、意識は三千年前、幻聴(右脳がささやく神々の声を左脳が聴く)に基づく「二院制の心」(bicamerai mind)の精神構造の衰弱とともに誕生したという仮説を提示している。
 もしこの仮説が何らかの考古学的・人類学的な(もしくは生命論的・生命哲学的な文脈における)真相に触れているものであるとしても、そしてそこで言われる「意識」が先に述べた「思考主体」と同義であるとして、それは言葉を読み聞くことと書き話すこととの相互入れ子式の関係が成立した後でしかそのようには言えない。思考の所属先(これは自らの思考なのか他者の思考なのか、思考しているのか思考させられているのか)をめぐる相互入れ子式の関係、ひいては自己と他者をめぐる相互入れ子式の関係が成立した後でしかそのようには言えない。
 ジュリアン・ジェインズの仮説は、ある思考主体(ジュリアン・ジェインズ)が、現に言葉として機能している言葉を使用して、思考主体そのもの、言葉そのものの誕生の経緯(思考主体と言葉の誕生以前の出来事)に言及している。実は、そうした自己言及的で自己包摂的な表現が可能になること自体が、言葉と思考主体の同時多発的な誕生がもたらしたものである。


【余録3】
 統合失調症の症状に現れる、日常生活における「正常な論理では理解しにくい病的な心理現象」は、言葉と思考主体が誕生する以前の「心の状態」(意識と無意識の対表現を超える「原−無意識」や「絶対無意識」、あるいは端的に「絶対無」とでも?)が、現にある言葉と思考主体による思考のうちに位置づけられたものである。
 生命論的・生命哲学的な文脈において(もしくは考古学的・人類学的な事実として)、この「絶対無意識」の心的状態は現に経験される心的状態(「意識・無意識」の二院制の心的状態とでも?)に先行する。また、それは「私と汝」の関係に出てくるそれとは異なる意味での「他者」(「原−他者」とか「絶対他者」とでも?)に所属する心的状態である。
 ここで、さらに「原−思考」とか「絶対思考」とか「絶対無の思考」(「絶対無」の場所における思考、「絶対無」自身の思考)といった概念を提示することができるかもしれない。言葉や思考主体の誕生以前の思考。たとえば乳幼児の思考。受精卵の思考。物質の思考(=生命の誕生)。宇宙の思考(=現象界の誕生)。「全ては虚空に浮かぶものから始まった」(ジェスパー・ホフマイヤー『生命記号論』)。


【3】
 哲学することは、哲学の書物を読むことから始まる。それは他者の哲学的思考の結果(思考内容)を知ることではない。哲学書を読むとは他者の思考を幻聴の声として聞くこと、すなわち自らの哲学的思考として聞くことである。他者の「哲学すること」を今ここに、自らにおいて立ち上げることである。それこそが哲学するということの実質をなす作業、すなわち「古いテクストを新しく読むということ」(井筒俊彦『意識の形而上学』)にほかならない。


【補遺3】
 哲学書は言葉で書かれている。言葉の底には「意味カルマ」(井筒俊彦)が潜在している。自らの体験に根ざしながら言葉の底に深く潜行し、「意味カルマ」の「現象化志向性」に促されること、すなわち言葉と思考主体の誕生のプロセスを自らのうちに反復すること、それが哲学するということのもっとも基底的な作業にほかならない。


     ※
 以上の、脱線と逸脱に満ちた「縮約」(あるいは超訳ならぬ「超約」とでも?)のうちには、永井均著『西田幾多郎』の議論が見え隠れしている。このことについては、近いうちに着手予定の論考において取り上げる。それは、言葉と思考の関係をめぐる三項関係のもう一つのヴァージョンである「クオリア─言葉─ペルソナ」──あるいはこれに茂木健一郎の「志向性」の概念、中沢新一の宗教の映画理論における「フィルム」に刻まれたデータ(表現へと向かうヒトの心の深部の構造、記号を生み出そうとする意志のプログラム)、井筒俊彦がいう「現象化志向性」、等々を取り入れた四項関係「クオリア─志向性─言葉─ペルソナ」──をめぐるものになるだろう。
 また、井筒俊彦著『意識の形而上学』の議論が、これは見え隠れどころではなく、その一部が説明不足のまま露出している。1月15日から始まった当面の「作業」(基底的作業?)の一応の中間総括と、そこから始まる次の「作業」(実質的作業?)へのつなぎを急ぎたかったからで、以下、この後者に関連する部分をもう少し抜粋しておく。


《我々の実存意識の深層をトポスとして、そこに貯蔵された無量無数の言語的分節単位それぞれの底に潜在する意味カルマ(=長い歳月にわたる歴史的変遷を通じて次第に形成されてきた意味の集積)の現象化志向性(=すなわち自己実現、自己顕現的志向性)に促されて、なんの割れ目も裂け目もない全一的な「無物」空間の拡がりの表面に、縦横無尽、多重多層の分割線が走り、無限数の有意味的存在単位が、それぞれ自分独自の言語的符丁(=名前)を負って現出すること、それが「分節」である。我々が経験世界(=いわゆる現実)で出遭う事物事象、そしてそれを眺める我々自身も、全てはこのようにして生起した有意味的存在単位にすぎない。存在現出のこの根源的事態を、私は「意味分節・即・存在分節」という命題の形に要約する。》(『意識の形而上学』29-30頁)