語り口の問題─永井均が語ったこと(番外)

 これは『西田幾多郎』を読んでいた時に気がついたことだが、永井均さんは本文と註に書いたことを自在に繋いで議論している。その分かりやすい実例が『改訂版 なぜ意識は実在しないのか』にあった。


《で、こういう類比はどうでしょう? 心や意識のあり方を、時間のあり方と比較してみるのです。自分に直接現われている感覚や意識を現在の出来事に、他者による振舞いの認知を現在の出来事の通時的な記録に、身体内のその物理的基盤を(過去・現在・未来といった時間様相を度外視した)無時間的事実に、それぞれ類比することができます。現在の出来事は、自分にだけ直接体験できる出来事ではありませんが、それと類比的に、その時点においてだけ直接体験できる出来事だからです(ただし、自己と他者の場合と違って、現在と過去には、記憶という直接的紐帯が存在する点が違っていますが)。そうすると、その記憶を含めて、かつて現在だった出来事を新しい現在に伝えるすべてが、自己と他者の間をつなぐ場合の外的な振舞いに対応することになりますし、そうした間主観的連関とも主観的認知とも無関係の物理的事実が、過去・現在・未来といった時間様相とは無関係な客観的出来事連関に対応することになります。》(『改訂版 なぜ意識は実在しないのか』22-23頁)


 これはちょっとおかしくないですか? 文中の「その記憶」とは、直前の括弧書きの中で言われていることを指しているのだから、それをいきなり次元が違う本文で言及するのは変だと思う。
 まるで舞台上の台詞の中でついさっき楽屋であった出来事に言及するるような、何かカテゴリー違反に近いことをやっている。
 永井均さんのこの語り口は、対話を想定していると考えればよく分かる。仮想の論敵か自分自身との哲学問答。あるいは対話的哲学思考のスタイル。(この本は大学での講義を基にしたものだから、自問自答的思考のスタイルというのが正解かも知れない。)


 『〈仏教3.0〉を哲学する』の鼎談で、時々永井均さんの存在感というか息遣いが聴こえなくなる時があった。じっと聴き入っているのか、別の考え事をしているのか、心ここにあらずなのか。
 それは「語り口」の問題ではなく、その反対の「語らない」ことのあり様の問題とでも言えばいいのかもしれない。
 ともかく鼎談という哲学的思考のスタイルには、本文と註がひと続きになる対話的(自問自答的)思考とはまた違った、本文と註と沈黙(メタレベルでの思考)が一体となった独特のテイストがある。


 ところで、「その記憶を含めて、かつて現在だった出来事を新しい現在に伝える」という永井均さんの発言を読んで、私は、水平的伝達(引用、模倣)、垂直的伝達(表出、反復)、通時的伝達(記録、伝承、心意現象)、共時的伝達(伝導)、そして〈私〉と〈私〉を繋ぐ第五の伝達といった分類を思いついた。
 そんなことを考えたのは、最近読み始めた岡安裕介氏の論考(「折口信夫の言語伝承考」他)を手掛かりに、そこに永井哲学のアイデアを導入して、たとえば和歌の心が伝わるとはどういうことかといった事柄について思いをめぐらせてみたいと考え始めていたからで…
 と、書き始めて、ふと、このような議論の進め方(他人の文章をその内容とかかわらない文脈で引用しておきながら、素知らぬ顔をしてその内容に繋がることを書く)は、永井均さんの「語り口」(本文と註が地続きになる)と似たところがあると気づいた。