四つの私的言語─永井均が語ったこと(その12)

 私はかねてから「四つの私的言語」という仮説をたてている。 
 この連載の3回目に紹介した「哥とクオリア/ペルソナと哥」の重要テーマで、これから本格的に取り組むことになると思う。
 その仮説の起点は永井均さんの私的言語論にある。だから前回、前々回に引いた発言は、ゾクゾクするほど面白かった。


 もともと「人称=私」と「時制=今」に関して、「私的言語」(私の仮説では、これは狭義のもの)と「今的言語」の二つが類比的に語られていた。
 たとえば、「もし記録された言語というものがなく、すべての言語がその時の意味付与と直結している音声言語だったら、すべての言語は時間上の私的言語である今的言語になってしまう」(『私・今・そして神』)といったかたちで。
 そこに、根源性の度合では劣るが「様相=‘ここ’」が加わり、「様相言語」もしくは「‘ここ’的言語」といった第三の「私的言語」(広義)の可能性が浮上してくる。(もちろん、そんなことを永井均さんが語っているわけではない。)


 そして、第四の「私的言語」(広義)の候補は、「私が悲しいとき(私には)世界が悲しいように映る」(永井均西田幾多郎──〈絶対無〉とは何か』)とか「簡単に云えば、世界は感情的なのであり、天地有情なのである」(大森荘蔵「自分と出会う──意識こそ人と世界を隔てる元凶」)と言われるときの、その「感情」をベースにしたもの。
 私秘的な私的感情ではなくて、私が悲しいことと世界が悲しいこととの区別がつかない、いわば世界の相貌としての感情。王朝和歌の世界では「思ひ」と言われるもの。
 そのような「感情、思ひ」としての「心」をベースにした私的言語、すなわち「相貌言語」もしくは「心的言語」。
(強いてうろ覚えの文法用語を使った思いつきを重ねれば、「相貌」=「相(アスペクト)」+「態(ヴォイス)」とでも定義することができるかもしれない。)