四つの私的言語、承前─永井均が語ったこと(その13)

 「私」「いま」「ここ」をパースペクティヴの三つのエレメントになぞらえるとすれば、「感情」もしくは「相貌」はパースペクティヴの第四のエレメントになる。
(「感情」もしくは「相貌」に代わる表現、「私」「今」「ここ」に匹敵する簡便な言い方が思いつかない。「これ」か「(この)感じ」か「(この)思ひ」などが浮かぶが、得心がいかない。)


 野矢茂樹さんは『大森荘蔵──哲学の見本』で、大森荘蔵の立ち現われ論をめぐって「あらゆる立ち現われには「今」と「私」とが刻印されている」と書いている。
 また、大森荘蔵が使う「相貌」という語をめぐって、「知覚風景のパースペクティブはそれが開ける主体の立つ視点位置を刻印しているが、それと同様に、知覚風景の相貌はそれが開ける主体の感情を刻印している」とか、「開ける光景と別に「視点」という何かがあるわけではないように、開ける光景の相貌と別に「感情」と呼ばれる心的状態があるわけではない」と書いている。


 以上のことを踏まえて、「哥とクオリア/ペルソナと哥」の第5章で、次のようなことを書いた。


 「あらゆる立ち現われには「今」と「ここ」(現場)と「私」とが刻印されている」(もちろん「感情」も刻印されている)というべきではないか。
 あらゆる立ち現われに刻印されているもう一つのもの、つまり「感情」は、個人の内面の悲しみ(内面の心的作用)といったもののことではなく、あくまでも立ち現われの「相貌」として、世界(としての私)の側にあるもののことだ。


 読み返してみて、私の使っている「パースペクティヴ」は、野矢茂樹さんが言う「知覚風景のパースペクティヴ」と「知覚風景の相貌」を合わせた概念になると気づいた。(そのような概念が成り立つとしての話。)
 そして、そこに刻印される「視点(位置)」と「感情」のうちの前者が、「私、いま、ここ」の三つの私的言語の起点に分岐することになる。


 野矢茂樹さんは『心と他者』で「眺望論」と「相貌論」の議論を提起した。その「眺望論を完成させ、相貌論をさらに前進させることができた」と著者自ら語っているのが『心という難問』。
 大森=野矢哲学と永井哲学との「対決」。いずれ取り組んでみたい。