【大森荘蔵】ことだま論・第2節(その1)

 9月25日大森荘蔵「ことだま論」の第1節を取り上げた際、「第2節はメモを取りながらじっくり読んだので、書いておきたいこと、それを読んでいるとき私の脳髄に立ち上がりあるいは立ち現われたことがたくさんある。このことは次回にまわす。」と書いた。その「次回」のことを忘れていた。
 あれから一月近く経ってしまったから、「それを読んでいるとき私の脳髄に立ち上がりあるいは立ち現われた」たくさんのことの記憶はもはや朧気でしかない。けれどもさいわい手元にメモが残っているので、それを頼りにできるかぎり再現しておきたい。(もう一度「ことだま論」を頭から読み直せばいいようなものだが、今日のところはそれをする時間がとれない。)


 その前に、昨日、本屋で野矢茂樹さんの『大森荘蔵──哲学の見本』(講談社)を見つけて買い求めたので、そのことについてちょっと書いておく。
 これは「再発見 日本の哲学」というシリーズの一冊で、「今こそ、日本の近代思想を読みなおす!」というのがシリーズの謳い文句。既刊は廣松渉佐藤一斎、石原完璽、続刊予定に折口信夫西田幾多郎北一輝小林秀雄和辻哲郎の名が挙がる。こういった面々のなかに大森荘蔵の名が連なることに、なぜか異和感が拭えない。「“日本の”哲学」というシリーズ名と大森荘蔵とがミスマッチなのかもしれない。
 それはともかくとして、野矢茂樹さんが大森荘蔵著作集第四巻に寄せた解説はとても見事なものだったので、この本には期待している。(でも、いつ読むか。)


     ※
 表象と対象(実在と現象)の二元的構図ではなく「立ち現われ」の一元的構図(「じかに」の構図)にあって「対象」はどう見てとられるか。賀茂川は幾度となくわたしに立ち現われてきた。知覚的に、想起的(思い的)に、また想起の想起として。それぞれ異なるその幾つかの「立ち現われ」は「同じ賀茂川」という「同一体制の下に」立ち現われている。事実そのように立ち現われている、というだけである。
 では、ただ一度、ただ一つの「立ち現われ」の場合はどうか。その一つの「立ち現われ」は、様々な他の「立ち現われ」と「同一体制の下に」立ちうるという会得を含んだ相貌をもって、すなわち「持続する物」としての相貌をもって立ち現われる。「もの」が「じかに」立ち現われるというときの「もの」は、さまざまな「同一体制」の会得を含んだ「立ち現われ」なのである。その「立ち現われ」の背後には「対象」なるものはない。(大森荘蔵「ことだま論」,著作集第四巻,151-152頁)
 それでは、個別的ではなく、一般的な「もの」の場合はどうか。さまざまに異なるが、しかし同じ赤い色の場合はどうか。


◎端的な事実としての「似た色」の立ち現われ


《さまざまに異なるしかし同じく赤い色を、「赤い」という「同類体制の下に」あると言おう。……さまざまな赤が事実「似た色」として立ち現われる。それだけである。「似ている」から同類体制の下に立ち現われるのでもなく、何かの特徴によって「似ている」のでもなく、「似た色」として事実立ち現われる、そのこと自体を「似た色」と呼び、名付けるのである。……
 同一体制の場合に、さまざまに異なる「立ち現われ」の奥に、同一不変な「対象」を想定する必要がないことを述べた。それとパラレルに、同類体制の下に立つさまざまな個別者の奥に、同一不変の「本質」、普遍者、「イデア」「形相」「スペチエス」、等を想定するのは不当であり不必要である、と言いたい。その理由もパラレルである。赤鉛筆の色と、梅干の色は異なりながら「似て」立ち現われる。それは端的な事実であって、それを同一不変な「本質」その他を見てとることによって「似ている」と判定する、といったような説明を必要としないからである。また、「類似性」を見てとることによって「類似する」のではなく、「類似している」ものとして「立ち現われ」ている、それだけである。》(『大森荘蔵著作集第四巻 物と心』154-156頁)


 ウィトゲンシュタインの「家族的類似性(family resemblance)」を想起させられるが、この概念のことはよく覚えていないのでパスする。
 こういうときこそ常備本『事典 哲学の木』の出番なのだ。そう思い立って開いてみると、永井均さんがそのものずばり「家族的類似性」の項を執筆していた。そこに、「その家族を家族的に結びつけているさまざまな特徴が挙げられれば、それらもまたふたたび家族的類似性によって結びついているのである。もちろん、それはどこかで、おそらくは「端的にとにかく似ている」としか言いようのないどこかで、終っているはずである。しかし、それがどこなのか、われわれは知らないのである。言語ゲームの根底には、このような家族がいる。」と書いてある。
(実は、ルキノ・ヴィスコンティ監督の『家族の肖像』(CONVERSATION PIECE)のことも想起したのだが、これはここの文脈とは完璧に無関係なので、これこそ本当にパスする。)
 その永井均さんの『西田幾多郎』に、いま抜き書きした大森荘蔵の文章と(たぶん)関連すると思われる記述があるので、以下に引用しておく。


《そこまで達すると、超越的主語面と超越的述語面とは一致する。それは、何ものの一例でもない。ただ端的にそうあるだけである。この場面でもし言葉が使えるとすれば、それは「こうである」と言えるだけである。「どうである」かは言えない。あえて分節するとしても、「これ(ら)は、このとおり、こうなっている」と言えるだけである。いったい「どれ(ら)」が「どのとおり」に「どうなっている」のか、と問われたなら、ただ「これ(ら)が、このとおり、こうなっているんだ」と答えられるだけである。それでも一応そう言えるのは、超越的主語面が超越的述語面によって包摂され、そこに原初的な判断が成立しているからである。
 いや、そもそも判断はそこから始まるのだ。それは場所の自己運動である。具体的一般者は、具体的であってもやはり一般者なので、自己自身を限定し、有限化していくための内部構造を内に宿している。具体的一般者は、それ自身の内部にいわば自らの判断化を推進していく(つまり主語─述語に分割し続けていく)力と潜在的な内部構造を持っているのである。
 その具体的なプロセスは、たぶん、なぜか似たものが寄り集まって、自らなる分類が生成し、さらに、あるものとそれのもつ性質(すなわち主語と述語)という組織化がなされていく、といったことであろう。この「これ」はあの「これ」と同じ種類の「これ」であり、今の「こう」は少し前のあの「こう」とと同じ種類であった、等々。つまり、この純粋経験は、抽象的一般者を作り出す力を初めから内に持っている。抽象的一般者とは、実は、具体的一般者がこのようにして限定されたあり方なのである。(中略)
 かくして、「これ(ら)は、このとおり、こうなっている」は、「この色は、このように、赤である」、「この感覚は、このように、痛みである」等々へと、自己を展開していくことになる(ただし、そこに「色」とか「赤」という記号があてがわれるのはまた別の過程である)。こうした判断においても、そこに働いているのは場所の自己限定の働きであるから、真の主語は「この色」や「この感覚」ではなく、色という場所、感覚という場所、とつづく場所の系列である。
 この議論の肝は、色なら色の、実存と本質が、つまり生の質(クオリア)とそれをつかむ概念が、地続きである点にある。概念は外から質を規定するのではなく、無限個の概念を内に含んだ非概念的な質が、その内側からおのれを限定していくわけである。すなわち、「分節化されていない音声」が一つの言語表現になりうるのは、外部から「一定の言語ゲーム」があてがわれることによってではなく、分節化されていない音声を自ずと分節化させていく力と構造が、経験それ自体のうちに宿っていることによってなのである。》(永井均西田幾多郎』63-65頁)