限界集落

 いわゆる「限界集落」の問題を考える会合に参加して、事例発表や参加者の発言を聞いて考えたこと。


◎まず、そこに住む「人」とその「生活」がある。健康、教育、消費(利便)、文化といった基本的な生活欲求が満たされなければいけない。資産管理、しごと、収入などの経済基盤が欠かせない。これらの要素がないと、人の生活は成り立たない。健康で文化的な最低限の生活は、憲法が保障している。
 次に、人々の暮らしを取り巻く「土地」、つまり「自然」や「環境」がある。「空間」といってもいいが、それは「時間」を内蔵した空間、あるいは「履歴」をもった空間である。
 多自然居住といわれる地域には、国土保全機能をはじめ、そこに住む人にとってのものだけではない社会的価値がある。これらのうち、荒廃するに任せておけない部分については、社会全体で守っていかなければいけない。
 この二つのもの(人=生活と土地=空間)は、農山村部では、実は一つになる。農業であれ林業であれ、人々の「なりわい」はその土地から離れて営むことはできない。人々がそこで暮らし続けることが、その空間を維持することにつながる。
 この二つのものを媒介するのが「集落」である。生活の共同性となりわいの共同性を担う集落。それは、本来は目に見えないソフト技術の集蔵体である。 


◎人と土地と集落。限界集落を考えるとは、この三つの要素を同時に考えることである。それは、農山村部、多自然居住地域の問題を、いわば限界事例において考えることである。
 人と土地と集落は、多自然居住地域の「経済体制」の三要素である。あと一つ加えるとすれば、集落内ではまかなえないサービス、たとえば医療を典型とする専門的サービスに対する「アクセス」。具体的には、道路の整備や訪問サービスなど。
 この四つの要素を同時に考えることが、限界集落、ひいては多自然居住地域の問題を考えることである。たとえば、第四の要素を抜きにすることは、いわば自給自足の経済体制を考えることである。
 限界集落の「経済体制」の特徴は、外部化に制約があることである。
 これが人口密集の都市部であれば、「集落」という要素は限りなく希薄化する。営利企業が参入できるからである。基本的な生活欲求の充足から経済基盤、冠婚葬祭、地域行事にいたるまで、都市では、外部委託できないものはほとんどない。
 同時に、都市では土地(自然、環境、履歴をもった空間)も希薄化する。集落とともに抽象化される。
 貨幣と市場が集落という媒介にとってかわり、工場とオフィスと店舗が土地にとってかわる。
 集落では、外部へのアクセスの場面をのぞき、現金は本来必要がない。


限界集落をめぐる政策的対応を考える際、上記の四つの要素をトータルに考えないといけない。
 これまでの対応は、四つの要素をそれぞれ単体としてとらえてきた。たとえば福祉政策、農村政策、農業・林業政策、道路政策として。
 それは、都市の経済体制を前提にしたアプローチだった。全体を部分の総和と見る線形思考。つまり社会邸分業を前提にした政策論。
 だとすると、限界集落は、多自然居住地域の問題に対する限界事例であるだけではない。都市と工業を核とする近代社会、いや現代社会がかかえる問題に対する限界事例でもある。
 新しい「経済体制」をつくりだすこと。かつて「都市と農村の結婚」ということがいわれた。それと似た、集落経済と都市経済の二つの体制の結合。NPO営利企業の、両方の要素を兼ね備えながら、そのいずれでもないもの、社会企業と呼ばれる主体による循環経済。その「土地」の富が、抽象的な外部へとかすめとられない経済体制。「資本」の地域内循環。
 かつての「自然経済」の仕組みを復活することはもはやできないし、そうすることに意味はない。できることはまず保存すること、そしてそこから伝統知(ソフトな技術)を抽出して、現代に生かすこと。