ファスト風土は現代の無縁の空間である

三浦展編著の『脱ファスト風土宣言』を読みながら、「ファスト風土」は現代の「無縁」(網野善彦)の空間ではないかということを考えている。
それは、柄谷行人の『世界共和国へ』を読んでいて、官僚制組織こそが、いいかえれば「個人として責任をとらない『システム』」(石牟礼道子)こそが「無縁」から発生する組織の一つの完成形態なのではないかと考えたことと呼応している。
『宣言』に納められた「日本の商店街は世界のお手本」で、服部圭郎氏が、9.11の背景にはイスラム都市のファスト風土化現象があると書いている。
どういうことかというと、同時テロの主犯の一人モハメッド・アタは「カイロ大学で建築を、ハンブルグ工科大学で都市計画を学び、西洋の悪い影響がシリアの古都アレッポの美しい都市景観と風土を破壊していることに対しての怒りをつねづね述べていたそうだ。グローバル経済、そして自動車、高層ビルによって、イスラムの魂が失われていることに強く憤っていたのである。」(38頁)
「グローバル経済・自動車・高層ビル」の三題噺で、現代文明の本質をさくさくと捌くことができそうだ。
たとえば、高層ビルが林立するマンハッタンはゲットー(ユダヤ人居住区)の風景の現代版だと、出典は忘れたが、どこかで読んだ記憶がある。
自動車は高速移動(高速体験は異界=他界への通路をひらく)、匿名空間(人を変える空間)のメタファー。
株やダイヤなどのポータブルな資産を持ち運び、ホテルの高層階で暮らす裕福なユダヤ人。
そんなステレオタイプなミスター・グローバルエコノミーの人物像が頭に浮かぶ。


ファスト風土は現代の「無縁」である。官僚は「無縁の原理」の体現者である。
これだけだと何も言ったことにならないし、あまりに漠然かつ粗雑である。
『宣言』での三浦展との対談で、オギュスタン・ベルクさんが「人工的な都市の都市性の欠乏をどういうふうに分析していくか」が「以前から私が抱いているテーマ」だと語っている。
ここでいわれる「都市性」について、「本物の街の特徴とは、出会いが可能であるということ」「都市性とは社会のエッセンスなんです」と語っている。
これをヒントに、ステレオタイプな仮説を提示する。仮説というほどの実質はないが。


かつて都市は匿名の空間、人を共同体のしがらみから自由にする無縁の場であった。
しかし、人がそこで暮らす空間としての都市は、やがて村落とは違うもう一つの共同体を生みだし、無縁の場がもつエネルギーは「悪所」へと封じ込められていった。
その囲い込まれた無縁の空間は、「官僚」(忘八者?)が娑婆の倫理を超えた作法で管理するようになった。
そして現代の高度資本主義の時代になると、かつての「悪所」が都市という共同体の制約を超えてグローバルに、ユビキタスに跳梁するようになった。
この都市を囲い込む空間(郊外)を、新たな「官僚」が管理する。
あまり面白くはないが、この線でしばらく考えてみよう。
いま「無縁の場がもつエネルギー」と書いた、そのエネルギー(悪の力?)はどこから来るのか。
神仏といってしまえば簡単だが、では「神仏」とは何か。
それら、もしくは「それ」はどこにいるのか。
あるいは、そもそもこれが「共同体」ですと、モノのように認識することができるのか。
村の寄り合いのように、だらだらと飲み食いしながらあーでもないこーでもないとお喋りするプロセスのうちにしかないのではないか。等々。
いずれにせよ、物事や事象、観念や概念にはつねに二重性がある。
中沢新一さんの言い方をかりるならば、かつて「公」ということばが「権力としての公(おおやけ)」と「アジールとしての公」の二つの異なる意味をもっていたように、「トーラス」と「メビウスの帯」で表象される二つの論理が高次元で連結されている(「公共性とねじれ」,『芸術人類学』)。
そういったあたりをじっくりと考えていこう。