最近買った本・読んでいる本

 今日、三冊の本をまとめ買いした。
 入不二基義さんの新刊が出ていると知ったので、散歩の途中、明石のジュンク堂に立ち寄り、速攻で買い求めたのが『時間と絶対と相対と──運命論から何を読み取るべきか』(勁草書房:2007)。個人的には、『相対主義の極北』と『時間は実在するか』(いずれも名著)の続編のつもりである、と「まえがき」に書いてある。秋の夜長、入不二ワールドにしばし浸るのも一興と思うが、さて、いつ読むか。
 哲学思想のコーナーに、内田樹村上春樹にご用心』(アルテスパブリッシング:2007)をみつけた。内田本は何冊か買ったまま読んでいないし、村上春樹関連本も同様の状態だし、さてどうするかと、『時間と…』を片手にしばし逡巡しつつ、ふと隣の日本古典文学のコーナーに視線を泳がせると、小松英雄『古典再入門──『土左日記』を入りぐちにして』(笠間書院:2006)が目に飛び込んできた。この本も以前ずいぶん悩んで、結局買うのをやめたことがあった。悩むほどのことでもない。ついでにまとめて三冊かかえレジに直行した。
 入不二本、内田本は、たぶんすぐに読み始めることはないだろうが、小松本は、いよいよ読むべき時を迎えていたようで、たまたま今朝、図書館で借りてきた『日本語の歴史3 言語芸術の花ひらく』(平凡社ライブラリー:2007)や、一昨日、これは別の図書館で借りた大岡信『うたげと孤心 大和歌篇』(同時代ライブラリー:1990)ともども、貫之現象学への道案内として格好の書物。摘み読みしかしていない『みそひと文字の抒情詩』の要約も織り込まれていて、とても重宝。
 貫之現象学といえば、いま再読している前田英樹『言葉と在るものの声』(青土社)が直接につながっている。このことは前に書いた。今朝も少し読んで、前田英樹のいう「声」とはクオリアのことで、それは貫之がいう「物」でもある、と手帳に書き込んだ。この前田本と中沢新一「映画としての宗教」をネタにして貫之現象学の序説をしたてようと思っていたら、『群像』11月号に「映画としての宗教〈特別篇〉 洞窟の外へ─TVの考古学」が掲載された。で、いま読んでいる。
 鶴岡真弓『黄金と生命──時間と錬金の人類史』(講談社)も断続的に読んでいるが、なぜか気が乗らない。その他、蔵本由紀非線形科学』(集英社新書)と加藤文元『数学する精神──正しさの創造、美しさの発見』(中公新書)、それから亀山郁夫『『カラマーゾフの兄弟』続編を空想する』(光文社新書)とロバート・ウォード『四つの雨』(田村義進訳,ハヤカワ・ミステリ文庫)を通勤電車の行き帰り、とっかえひっかえ読んでいる。山内志朗『〈畳長さ〉が大切です』(岩波書店)も読んでいる。