アクロバティックなまでに複雑なモデル──『貨幣と精神』

 中野昌宏『貨幣と精神――生成する構造の謎』(ナカニシヤ出版:2006)を読んだ。
 ホッブス的秩序問題といわれるものがある。自由な個人が好き勝手に行動をとると、万人の万人に対する闘争に行き着くと思われるが、にもかかわらず社会に秩序がもたらされうるのはなぜか、というものだ。
 著者の問題意識は、人間集団においてそのような下からの秩序が生起・生成するプロセス、つまり「創発」のメカニズムを(部分的にであれ)いかに制御し設計しうるかということであり、その前提として「生きている構造」とは何かという「古代ギリシャ以来の難問」を原理的に考察することである。
 「生きている構造」と呼ばれるものにはいくつかあるだろうが、著者が(具体的かつ実践的な)関心を寄せるのは、表層的には昨今のグローバリゼーションの流れであり、より核心においては、あたかも自動機械のように稼動する資本制そのものが孕んでいる矛盾である。
 それは貨幣や人間主体の成立が孕んでいる矛盾と同型のもの、すなわち「特殊なものの普遍化がいかにして起こりうるか」という、すでにそれが起こってしまった後からその起源を問うときに立ち現われてくる矛盾である。
 この創発アポリアを散文的・物理的に理解することも、逆に神秘的に理解することも無効だ。より複雑なモデルでもって、アクロバティックな仕方でこの矛盾と折り合いをつけること。
 しかし、それはもはや机上の問題ではない。この世界のうちに、局所的なシステム(「生きている構造」)の創発性を担う「私」を立ち上げ、システム全体を(下から)創発させること。そうした実践のための最低限の「理論武装」を試みたのが本書である。著者はそう書いている。
 第1部では、秩序問題と同型性をもつ二つの問題のうち貨幣の起源をめぐる問いに、マルクスの価値形態論の読解を通じて取り組み、第2部では、主体の成立をめぐる問いに、ラカンの理説(現実界象徴界想像界)を導入して取り組む。
 それらの論考の底流をなすのが、ヘーゲル哲学(否定と媒介)の時間論的読み替えともいえるもので、それは、「生きている構造」を立ち上げ稼動させる「力」を論理そのものから抽出しようと試みられた第3部で、著者がもっとも注目する内部観測の方法論へと接続されていく。
 貪欲なまでに目配りのきいたリサーチと文献の読み込み、手際よい要約と考えぬかれた配列。博士論文として出色の出来なのではないかと思うし、柄谷行人大澤真幸の路線を踏襲する新人のデビュー作として、存分に力量を示しえているのではないかとも思う。
 ただ、ここに示された理論なりモデルが充分に「複雑なモデル」たりえているかというと、それはかなり疑問だ。少なくとも、これだけの「理論武装」でもって実践に向かうことは危険すぎるだろう。
(著者が挑もうとする資本制の側からは、よく勉強しているね、とねぎらいの言葉が投げかけられるかもしれない。これは皮肉をいっているのではない。ある時期、ある局所的な社会のうちで流通していた言説群の整理、解説、総括、批評、継承の書としては、『構造と力』や『存在論的、郵便的』に匹敵する出来栄えだと、私は心底感心し、驚嘆している。)
 「準備は整った。それでは、次のステップに進もう。」この言葉で著者は本書を締めくくっている。そこでいう「次のステップ」とは、いきなり実践(この世界のうちに「私」を立ち上げること)に向かうことではなく、もっとずっと複雑でアクロバティックなモデルをこしらえてみせることだろう。ラカンの思考の解説やマルクスドゥルーズ等々への接続から、ラカンの理説を存分に自家薬籠のものとして使いこなしてみせることへ。それが中野氏が取り組むべき「次のステップ」だろう。
(そんなこと言われなくても、もうとうに次の作品に取り組んでいますよ、と著者の言葉が聞こえてくるような気がする。その未完の著書は、ヘーゲルの『大論理学』のような世界を最初から創造し直すほどの力を湛えた抽象の殿堂か、あるいは、たとえばジンメルの作品のように、最も抽象的なものが最も具体的であるといった背理を生きる高純度の抽象物か。それとも想像を絶するまったく新しい世界をひらくものなのか。期待が高まる。)


※2006年3月4日付けの「社会分析的ブログ」に、ジュンク堂の書評誌『書標』に掲載された著者の文章が貼り付けてあった。