スクリーンのなかの身体──『大人のための「ローマの休日」講義』

 北野圭介著『大人のための「ローマの休日」講義──オードリーはなぜベスパに乗るのか』(平凡社新書:2007)を読んだ。とても面白い本だった。


《『ローマの休日』は、『裏窓』と同様に、五○年代という時点でハリウッドが蓄えてきていた、演技法のレパートリーをふんだんに盛り込んだ映像的身体の競演といった側面をもつ傑作なのです。『ローマの休日』は、身体の映画であるといって間違いないのです。》(135頁)


 本書のちょうど中ほど、第四章「足先のレッスン」の末尾に出てくるこの文章が、(現代という時点で映画批評が蓄えてきていた、批評法のレパートリーをふんだんに盛り込んだ)著者の議論がもつ魅力の在り処を語っている。
 そこにちりばめられた「映像的身体」や「身体の映画」といったキーワードが、本書の後半、第五章「フォトグラフィック、シネマティック」から第六章「スタイルの身体、そして身体の戸惑い」を経て終章へと重層的に続いていく、「スクリーンのなかの身体」すなわち映画的身体をめぐる北野映画批評(「憧れ」の映像詩学)の開始を告げている。
 その極めつけは、著者が「存在論的アプローチ」と名づける哲学的映画論が展開された第七章「オードリーの三つの身体」であり、同様に「同時代批評的アプローチ」が試みられた終章「陽の光、そして瞳のディアレクティケ」である。


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 著者は、『ローマの休日』冒頭の夜会のシーンで、ドレスのなかにもぐりこんだカメラが映し出すアン王女の足先の動きに注目している。「王女は、左足がかゆいらしく、右足を靴から出してその足先を、むずがゆい箇所にもっていく、と、次に右足を靴に戻そうとするけれども、肝心の靴が、見ることのできないドレスのなかで、どこにあるのかみつからずうまくゆかない。そうこうしているうちに……」(112頁)。
 この「足先のレッスン」は、映画という「人類史上はじめて世界を機械的に再現してしまう視覚テクノロジー」が引き起こした身体意味作用の大転換が手なずけられ、操作可能になった段階で立ち現れ演出されたものである。「身体の小さな部位に、無意識の恥じらいまでも含めた、こころの表情──もしかすると、無意識の襞まで含めて──を写し出させる感情の論理を、二○世紀中葉には、映画は演出可能なものとして自らの手中のものにしていたということです。」(153-154頁)
 オードリー・ヘプバーン(『ローマの休日』[1953年])が、マリリン・モンロー(『ナイアガラ』[1953年])やグレース・ケリー(『裏窓』[1954年])とともにスクリーンに登場した50年代は、そのような「視覚イメージをめぐる大きな転換期」(174頁)、すなわち「フォトグラフィックの時代、ピンナップの時代、スタイルの時代」(190頁)だった。
 それはまた、ポストモダンなイメージの戯れの先駆的な特徴があらわれはじめた年代でもあった。「性の営みも含め、あらゆる生活の局面がスタイルとして享受されていく一方で、そのスタイルへの欲望をめぐってはてしなく深読みが繰り返されることで、周囲の世界の意味作用が重層化されていく時代。つまりは、人間関係自体がゲームのように駆け引きの対象となっていく時代。」(188頁)
 こうした視覚イメージと時代の変化をめぐる考察を踏まえて、著者は、スタンリー・キャベル(『眺められた世界』)の議論に拠りながら、「フォトグラフィックであると同時にシネマティックな」オードリーの、動きを含みもった身体のイメージについて縦横に論じていく。


《映画(そして写真)という表現装置の核の部分には、人間の身体を、現実世界の時空間の真っ只中において写し取るという、ほかの表現手段ではけっして真似ることの出ない特質がある…。その身体は、いやがおうでも、それが住まう、それが接する世界と一体となってイメージになるのです。大げさにいえば──実は、大げさであるとは思っていませんが──、映画的身体の出現、これは、人類の表現行為の歴史のなかで、未曾有の出来事といえるのです。》(203-204頁)


《ある場所で起きてしまった何かの痕跡において、そこで起きてしまった事柄の生のリアリティをそのまま伝達してしまう、写真には、そのような残酷なまでの記録性があります。それは、写真という表現媒体のもつ、底知れぬ潜在的な力を知らしめるものです。映画は、この写真の本質的な力の一部を引き受けつつ成り立っている媒体です。『ローマの休日』の、あのときのあの場所のオードリーという点に関するかぎりは、写真性のなかのオードリーである、そういってもおかしくありません。
 しかしそれだけでは、『ローマの休日』の一番大事な何かが抜け落ちてしまう予感がします。
 幾層にも折り込まれた身体、それがそこにあるといえるからです。そこには、スターになりつつあったオードリーの身体でもあり、アン王女という役柄の身体でもあり、また、あるときある場所でフィルムにその身体行為の痕跡をとどめてしまった一人の若い女性の身体でもある、そうしたいくつものイメージが折り重なった映像が映し出されているのです。フォトグラフィックなかけがえのなさといいきって片づけてしまうには、いくつもの身体、いくつもの虚実、いくつもの意識や想像力が折り重なりすぎているのです。》(208-209頁)


《この映画には、映画という表現媒体が抱え込む、分かちがたい三つの身体があるということです。すなわち、メカニカルな光学装置であることが起因となって出来する、映像に痕跡として残留してしまう個的な生、それと、それを包み込む情景のあの時その場所にいたというとりかえ難き一回生の事実性が塗り込められた身体があります。生身のオードリーの身体です。
 次に、役者もしくはスターとして伝承されていく、ある意味でシンボル化された身体のイメージの一部としての身体があります。さまざまな媒体が伝え、そして、わたしたちが接し憧れてきたオードリーのイメージのはじまりを刻印した身体です。
 さらに、演じられている役柄が表現するところの、鑑賞され解釈される物語を紡ぎあげる登場人物の身体です。アン王女の身体、といっていいでしょう。
 もちろん、こうした、生身の役者、シンボル化されたスター・イメージ、それに物語のなかの役どころ、これら三つの身体は、どんな映画にも認められるものです。しかし、『ローマの休日』においては、これら三つの身体が、どれもそれぞれに輝き、互いに損なわない仕方で存立し、緩やかに浸透し合っているのではないでしょうか。(略)
 この作品のわずか一部分を、いや、静止画写真のように切り取られたイメージをみてさえ、そこに、わたしたちは、俳優としての仕事を歩みはじめたばかりの女性のかけがえのない一瞬、伝説の人物となっていく一大スターの足跡、さらには、観客が自らの人生を内省するきっかけとなるお手本としてのアン王女の物語が喚起されてしまいます。
 フォトグラフィックとシネマティックは、ここにおいて、見事に交差するイメージ体験を生み出すこととなっているといってもいいでしょう。》(220頁)


 三つの身体が見事なバランスで溶け合ったとき、「特定の瞬間に留まることなく動き続けていこうとする躍動感が溢れんばかりの、運動性を全面に湛えた身体イメージ」が実現している。


《そうした躍動感、運動性は、身体イメージに、観ている者のままざしを受けとめるというだけでない、観ている者を鼓舞する、勇気を与えてくれる力をまとわせるものでもあります。(略)一介の一個の人間として観ている者を受けとめつつも、その躍動感と運動とにおいて、観ている者の身体を巻き込む、映画という運動の表現媒体にふさわしい美しさ、それを『ローマの休日』の身体は驚くほどに体現しているのです。そして、オードリーのまなざしは、絵画の一方通行の優しさではなく、一個の人間から一個の人間へと発された勇気の力を与えるものなのです。》(230-231頁)。


 しかし何ゆえ、オードリーの身体はわたしたちに勇気を与えてくれるのか。
 ここで著者は、『ローマの休日』の「真実の口」と「河畔のダンスパーティ」の間に挿入された「祈りの壁」のシーンに注目する。「オードリーはそこで、壁づたいに捧げられた多くの花々の一角で、ひざを折って何かを祈る人々を目撃します。祈る姿を目撃してしまう行為、それは、当時の観客にとって、戦没者に対してなされた祈りを想像させたといってもまず間違いありません。」(238頁)
 このシーンをめぐって、著者は、「生の現実を映し出す映像という映画イメージの在りかたは、目撃する者が映し出されるという卓抜な仕掛けが潜り込んでいたからこそのものである」(240頁)というジル・ドゥルーズの洞察を踏まえて、次のように書いている。


《オードリーの瞳は、わたしたちへ向かって、いや、このわたしに向かって開かれていて、誘い、語りかけてくるようです。大丈夫ですよと。勇気をもちなさいと。こころとからだの不安と戸惑いは、ここにもあったのだよと。
 戦没者を祈る女性のすがたをみつめた瞳がその責務を後世に伝えるがごとく、その同じ瞳で、オードリーはわたしたちを見つめ返してくれるのです。
 その、やさしく語りかけてくる──ディアレクティックな──瞳のイメージ、いくつもの祈りが折り込まれた瞳のイメージ。オードリーのそうした瞳がもつ誘惑の勇気こそが、『ローマの休日』を織り上げている映像を慎ましくも凛として律動させている、朗らかで明るい映像のリズムである、そういいたくなります。そしてそのリズムこそが、おそらくは、この映画における映像の詩学だと筆者は想うのです。》(245-246頁)


 本書の佳境をなす第七章と終章の論述には、掴みきれないところがいくつかあった。だから、上記の要約もしくは抜き書きからは、たくさんの大切な論点が抜け落ちている。
 たとえば第七章の「劇行為の本当の意味」と小見出しが付された箇所。哲学的映画論の「哲学的」たるゆえんが語られているのだと思うが、うまく咀嚼することができなかった。
 私自身の理解力不足ゆえなのか、著者の論述に穴があるからなのか。前者だと思うが、それでも、何か十全に語りきられていないものがある、もしくは、論述を背後で支える理論が隠されていて、完全にその姿をあらわしていない。そんな感じがつきまとう。
 しかしこれは、物足りなさの表明ではない。「映画的身体の出現、これは、人類の表現行為の歴史のなかで、未曾有の出来事といえるのです」。この言葉に接するためだけでも、本書を読む価値がある。


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 前半の議論も素晴らしい。
 『ローマの休日』の成立に至る「奇跡」的な偶然の出来事の重なりや、映画史的なレファランスを豊かに刻み込んだその多面的な相貌を描く第一章「舞い降りてきた『ローマの休日』」。
 アンドレ・バザン(『映画とは何か』)に始まる作家主義的アプローチや、メロドラマをめぐる物語的想像力論などを踏まえて作品の構成分析がほどこされる第二章「作品のかたち」。
 スター論的アプローチでもって、同世代の女優、マリリン・モンロー(セックス・シンボルにして女神)やグレース・ケリー(彫刻のように結晶化されたクール・ビューティ)と対照させながらオードリー・ヘプバーンの魅力にせまる第三章「「妖精」と呼ばれたスター」。
 演劇の演技と映画の身体表現、舞台俳優と映画スターの比較を通じて、『ローマの休日』を「身体の映画」として捉える第四章。
 そのいずれも、ミニ映画史講義、ミニ映画批評史講義として抜群に面白い。とりわけ、第三章から第五章にわたるモンロー、ケリー、ヘプバーンの三人の女優の比較論やその作品論(『ナイアガラ』や『裏窓』)は実に刺激的だ。
 しかし、それらにも増して、映画批評の最前線を切り拓いていく後半の議論が出色の出来栄えなのだ。
 『ローマの休日』という「不思議な映画」がたたえる魅力に引きつけられて、ロラン・バルトが「ガルボの顔は、〈イデア〉であり、ヘプバーンの顔は〈出来事〉なのだ」(「ガルボの顔」)と評した、スクリーンのなかのオードリーのイメージが観客にもたらす「朗らかな明るさ」や「何か大きな肯定的なもの」の実質に迫っていく、(細部への理論的な沈潜を抑制し、個人的な生の感覚に即して論述しきった)著者の躍動する筆遣いが見事である。


 なお、人文書院のHPに北野氏の「映像論序説」が連載されている。著者いわく「本書の論述における理論的部分を抽出し、専門的に整理したもの」(256頁)。