大阪都構想は政治的寓話を超えるか



砂原庸介『大阪──大都市は国家を超えるか』(中公新書


 大阪都構想は「政治的な寓話」(221頁)の域を超えることができるか。
 明治維新以来の大都市をめぐる制度と政治闘争の歴史を、市長対議会、東京対その他の大都市、大都市対全国(農村)の三つの対立軸をもとに詳細にたどり、2010年に提唱された大阪都構想がはらむ古くて新しい課題(強いリーダーシップによる成長か、財政制約のなかでの分権・民営化による効率化の追求か)とそれが提示する選択肢(大都市が国家を超えるような自律性を獲得すべきか否か、220頁)を抽出して、橋下徹という「希有な政治的企業家」(212頁)の登場がもつ意義とその帰趨を見定めるための有益な視点を提供する。
 特に、大阪都構想が、本来トレードオフの関係にたつふたつの論理(成長を追い求める「都市官僚制の論理」と、効率化を志向する「納税者の論理」)を内包しているという指摘が鋭い。


「「都市官僚制の論理」は、重商主義の都市における変奏、あるいは公共の福祉の観点から集権的に都市を作り替える「革新」の発想に近い。すなわち、政治家の強力なリーダーシップのもと、民間企業の手法を用いて大都市の事務を効率化し、都市インフラを整備して大都市の経済的な発展を導くことが強調される。大都市に居住することが住民にとってのメリットとなり、大都市に人を吸い寄せようとする。そして、周辺部に対しては、大都市からのトリクルダウンへの期待と引き換えに協力を求める。
「納税者の論理」は、政府の社会に対する介入を否定する自由主義、あるいは一九八〇年代以降先進国で支配的な新自由主義の発想として理解できる。特別区への分権や事業の民営化によって、大都市が一元的に行っていた事業を細分化し、支出と収入のバランスを強調する。」(205-206頁)


 橋下維新の会は今後、相克するふたつの論理のバランスをどうとっていくのか。そして「日本という国が、ひとつの巨大な都市──言うまでもなく東京である──の後背地であり続けることが望ましいのか、あるいはそれが持続可能なのか」(220頁)という究極の政治選択に対して大阪都構想がどのような役割をはたしていくか。


 興味深い提案があったので記録しておく。
 それは大都市に限定して保育や教育といった「子どものための投資」に関わる国庫補助金(と義務付け・枠付け)を廃止し、その分を地方税の移譲で埋め合わせるというもの。これによって大都市では全国一律の水準を超えて多様なサービスが実施される。