ゴジラ、あるいは国家の死を告げるリヴァイアサン



片山杜秀『国の死に方』(新潮新書


 映画「ゴジラ」が封切られた昭和29年11月、日本の政治は死に体だった。造船疑獄、指揮権発動、国会乱闘、警官隊の導入とつづく、政党再編前夜の政治的空白を、水爆大怪獣・ゴジラが襲った。
 政治は空転する。壊れた原発のように大量の放射性物質をまき散らすゴジラ退治を、あろうことか民間の東京電力に委託する。映画の中の日本政府は、防衛力は最小にとどめ、いざというときはアメリカにお任せする吉田ドクトリンを地で行う。しかしゴジラは倒れない。
 古老は言う。竜神ゴジラを鎮めるには島の娘を生け贄に捧げるしかないと。犠牲がなければゴジラの災厄は収まらない。
 だが前年の総選挙で左派社会党は「青年よ、銃をとるな。婦人よ、夫や子供を戦場に送るな」と連呼し、躍進をとげた。日本は「人の命は地球より重い国」になっていた。
 ではどうやってゴジラを鎮めたか。自発的に犠牲役をかってでる一民間人の無償のボランティアによって。


「国家が国民に決して死ねとは言えない国。新たな犠牲の論理を与えられない国。犠牲社会は少なくとも表向きには片鱗さえ存在を認められない。利益社会だけしかない。それはそれで素晴らしい。が、その国にはやはり死せる国体のあとのとてつもない空白がある。」(213頁)


 ──近代国家に死を賜る聖なる海獣リヴァイアサン)・ゴジラとボランティアの物語。「身捨つるほどの祖国」(寺山修司)喪失の物語。最後の二つの章で語られる迫真の論考が記憶に残る。
 序章でふれられる『ゴジラ』の映画音楽と緊急地震通報のアラーム音とのつながりをめぐる話題とあいまって、本書がどのような問題意識のもとで、またいかなる外的状況と対峙して書かれたか、その外枠をかたちづくっている。
 通奏低音のように短いセンテンスで畳みかける緊迫した文体が、どこかパセティックな響きをともって、第二のゴジラの到来を告げているかのようだ。
 政治思想史の研究者にしてクラシック音楽の評論家。新しい論客の誕生。