私・今・神・そして愛─永井均が語ったこと(その14)

 いま『改訂版 なぜ意識は実在しないのか』を毎日少量ずつ服薬するように読んでいて(服読?)、今朝読んだところにこんなくだりがあった。以下、前後の文脈は気にせずに引用。


《しかし、これは「実際に痛みを体験する/しない」ということを実体化し、対象化し、実在化するところから生じる、架空の問題である、と私は考えます。(略)
 しかし他方で、物理的であれ心理的であれ、まったく因果過程に関与しない種類の事実は実在します。たとえば、現在であることや私であること(ただしどちらも最上段の意味で)がそれです。(もう一つ付け加えるなら「現実世界であること」もそうですが、それはまた別に論じるべきことでしょうね。)》(『改訂版 なぜ意識は実在しないのか』105-106頁)


 ここに出てきた「現在」「私」「現実世界」が、四つの私的言語のうちの三つに対応している。
 かの『私・今・そして神──開闢の哲学』のタイトルから言えば、現実世界を開闢するのは「神」だから、第三の私的言語、「様相言語」もしくは「ここ的言語」に対応する「現実世界」は「神」に置き換えていいかもしれない。


 そうだとすると第四の私的言語、「相貌言語」もしくは「これ的言語」に対応するものは何か。「物理的であれ心理的であれ、まったく因果過程に関与しない種類の」第四の「事実」とは何か。
 私の考え(というより、当座の仮説)では、それは「愛」になる。
 いかにも唐突だが、私はたとえば内田樹著『レヴィナスと愛の現象学』の議論を念頭においている。


 この本のことは「哥とクオリア/ペルソナと哥」の第19章で触れた。
 その際、純粋経験を記述する四つの私的言語の話題に関連づけて、「今、ここ、私、感情」のそれぞれに対応する「意味、知覚、神、愛」の四つの現象学レヴィナス的な意味での)を総動員することで、「全きノエマ」としての歌(王朝和歌)のすべての相貌が記述されうるのではないか、と書いた。
 この「アイデア」は厳正な吟味と修正が必要だが、「私」「今(現在)」「ここ(現実世界)」「これ(感情)」に対応する四つの現象学のうち、現時点で「ここ=神の現象学」「これ=愛の現象学」の対応は仮決めしておきたい。