四つの私的言語、補遺─永井均が語ったこと(その15)

 書き残したことをいくつか。


 その1.
 「風間くんの「質問=批判」と『私・今・そして神』」で言及された次の文章に、「西洋哲学史全体」にかかわる四つの問題が出てくる。


《ともあれ、神の存在論的証明をめぐる哲学史上の所説、現実世界の位置をめぐる可能世界論における対立、A系列とB系列をめぐる時間論上の議論、そしてコギト命題の解釈をめぐる論争、これらがすべて‘同じ一つの’問題をめぐっていることは、まずまちがいないことだと私は思う。》(『私・今・そして神』180頁)


 私はこの四つの問題を、私が(勝手に)言う四つの私的言語に関連づけられないかと考えていた。しかし前回唐突に「愛の現象学」をもちだしたことで、この構想は修正を余儀なくされた。


 その2.
 自分が昔書いた読書録を眺めていて、永井均さんがこんなことを書いていたのを「発見」した。


《たしか新宮一成さんが、これに関連したことをどこかで書いておられたと思う。どこだったか忘れてしまったうえに、自分の関心に引き付けた勝手な読み方で読んだので不正確な紹介になるが、たとえばこんなことだった。このように世界の内部に位置づけられていない「愛」は、世界の側からの「迫害」として反転して現れうる。それこそがラカン的「鏡像」ということの真の意味だ、というような(まちがっていたら失礼)。この場合、私が世界を愛することと世界が私を迫害することが区別できない。もっと単純な例に言い換えてしまえば、私が服を着ることと服のほうが私に着せかかってくることが、だ。》(『私・今・そして神』79頁)


 すっかり忘れていたが、『私・今・そして神』には三段階の私的言語といった議論も出てきていた。いい加減な思いつきを垂れ流すのではなく、もっと永井哲学に「ひたりついて」いかなければと思った。


 その3,
 この「シリーズ」の第10回目に引いた文章の中で、永井均さんは「言葉の根本は、主語と述語で文ができると、それに否定と連言の操作が付け加わって、あとは時制、人称、様相が加えられて、そうやってできるわけだ」と語っている。
 四つの私的言語などという個人的なテーマは措いて、永井均言語哲学にもっと「ひたりついて」いきたいと思った。