チェスの比喩と映画の比喩─永井均が語ったこと(その16)

 永井哲学に「ひたりつく」のはまた別の機会にして、ここではあくまで永井哲学を「使う」立場に徹する。
 で、四番目の話題。四番目といっても、それは独立したものというよりは最初の話題「空っぽの〈私〉と歌の器」の補遺のようなものになると思う。


 『〈仏教3.0〉を哲学する』の第三章で、永井均さんは「ウィトゲンシュタインの比喩の中で一番好きな比喩があって、それはチェスのゲームの比喩なんです」(209頁)と語り始める。
 ウィトゲンシュタインのチェスの比喩は『青色本』に出てくる。該当箇所の永井均訳を引用する。


《私はチェスがしたいのだが、ある人が白のキングに紙の冠をかぶせる。それによってその駒の使い方に何か変化が生じるわけではないのだが、彼は私にこう言う。その冠は自分にとって規則によっては表現できないある意味をそのゲームにおいて持っているのだ、と。私はこう言う。「それがその駒の使い方を変えないかぎり、それは私が意味と呼ぶものを持ってはいない。」》(『ウィトゲンシュタインの誤診』172-173頁)


 これから先は、「哥とクオリア/ペルソナと哥」の第26章に書いたことだが、永井均さんは『ウィトゲンシュタインの誤診──『青色本』を掘り崩す』で、最初に大森荘蔵訳でこのチェスの比喩を読んだとき「身体が震えるほど興奮した」(173頁)と書いている。
 いわく、ウィトゲンシュタインがここでチェスに喩えているのは言語で、かつ独我論の語りえなさを示している(独我論を批判している)のだが、私(=永井)はそうは受け取らなかった。チェスは世界の比喩で冠は私の存在そのものの比喩と受け取り、かつこの比喩を新しい独我論の表現の仕方として受け取ったのである。


《別の比喩を使えば、映画の中に登場している一人の登場人物がじつはその映画の画面そのものでもある、という構造である。彼はストーリー上はたんに登場人物の一人にすぎず、映画の中には彼と直接関係しないたくさんの登場人物とプロットが存在しているにもかかわらず、彼らはみな画面の中でふつうに死んでいけるのに対して、彼が死ぬ場合だけ──映画のストーリー展開とは無関係に──画面そのものが消滅してしまう。当然、その消滅を映画のストーリーにおいて表現する方法はない。ストーリーはストーリーで別の意味で継続していくからである。それはもはやアクトゥアリテートを欠いたレアリテートの内部だけの継続なのだが、そのこともまたレアリテートの内部で表現される方法はない。(別の意味では何の問題もなく表現されてしまう)。この世界はそのような構造をしている。》(『ウィトゲンシュタインの誤診』177-178頁)


 ここで述べられた「〈私〉の死」のテーマは、『〈仏教3.0〉を哲学する』第三章後半の話題につながっている。