チェスの比喩と映画の比喩、承前─永井均が語ったこと(その17)

 『〈仏教3.0〉を哲学する』第三章後半。
 永井均さんはそこで、ハイデガーの用語を使って、〈私〉(藤田一照さんが言うところの「山括弧の純粋形の」(217頁)私)の死=Tod=死、「私」(同じく「カギ括弧の平均形の」私)の死=Ableben=落命の違いについて次のように語っている。


《ここに三人いて、なぜかこいつが私なんですけど、まず、〈私〉はこの永井均さんが死ななくても死ねるわけです。さっきのチェスの比喩で言えば、ただ冠を外すだけでいいわけです。駒が全くこのままであっても、ただそれだけで、そのチェス・ゲーム全体が端的に消え去ります。(略)
 次に、「私」の死の方について考えます。冠をかぶっている駒が壊れても消え去っても、もし冠が残っているなら、〈私〉は死んでいません。(略)
 ここまでのところでは、だから〈私〉は死なないんだよ、と言っているのではないですよ。駒が壊れて消滅すれば、冠も一緒に壊れて消滅するのかもしれないからです。それは、これまでまた一度も起こっていないので、まだわからないことです。
 しかし、こういうことは言えます。たとえば輪廻転生とかいう考え方がありますね。あるいは、死んだら天国に行くとか、いろんな考え方がありますけど、そういうときに何を考えているのかというと、天国へ行くという話では。、レイテ川を越えると記憶を全部失うとも言われていますから、そうだとすると、それなのにどうしてそいつが自分だと分るのか、と言えば、端的にそれしかないことによって、でしかありえない。つまり、本質や属性によってではなく、存在によってです。そういうふうに考えないと、記憶によっても何によっても繋がっていないのに自分でありうるなんて考え方が、そもそもなんで理解可能なのか、意味がわかるのか、それが分からない。だからきっと、暗黙の内にいま言ったような考え方をしているに違いない。》(220-221頁)


 「本質や属性によってではなく、存在によって」云々のところが第一の話題に繋がっていく。
 前回抜き書きした「映画の比喩」の話の中で、「それはもはやアクトゥアリテートを欠いたレアリテートの内部だけの継続なのだが、そのこともまたレアリテートの内部で表現される方法はない」という部分があった。
 ここで言われる「レアリテート」が「本質や属性」(や「内容、思想」)に、「アクトゥアリテート」が「存在」(や「神の語、音楽」つまり「空っぽの器」)にそれぞれ対応している。


《別の表現で言い換えれば、冠はレアリテートにおいて表現されないアクトゥアリテートにおける差異をレアリテートの内部で表現しようとしたもの、ということになる。独我論の「私」のほか、前の段落で述べた「現実世界」や「現在(今)」にも、この同じ構造が認められ(しかし「現赤」にはそれが認められない)、宗教の「神」にはそれらの鏡像のような面がある。》(『ウィトゲンシュタインの誤診』179頁)。


 第四の話題はこのあたりで切り上げる。