パースペクティヴと累進構造─永井均が語ったこと(その9)

 永井=内山の「世界四段階説」の概要を読みながら、というより『〈仏教3.0〉を哲学する』に引用されたいくつかの図を眺めながら、この図はいったい誰が、どの視点から世界を観察して描いたものなのかが気になっていた。
 これは、独在者の複数性や世界の複数性・多重性をいうとき、それはいったい誰が、いかなるパースペクティヴのもとでそう語るのか、と問うのと同じことのように思える。
(独在者すなわち〈私〉がそのような問いを発することはあり得ない。なぜなら〈私〉はリアルな事象内容をもたないのだから。つまり〈私〉には「体験する自己と体験される世界の区別がない」のだから。)


 市川浩著『〈中間者〉の哲学──メタ・フィジックを超えて』のエピローグ「〈中間者〉の存在論──トランス・フィジックの試み」を読んでいると、ライプニッツモナドはパースペクティヴをもつと書いてあった。
 だから、モナドが単なる部分ではなく全体を映しだすためには、コミュニケーションによって共同的な世界像を形成しなければならない。
「しかしライプニッツモナドには窓がないのだから、コミュニケーションは不可能である。にもかかわらず全体を映しだすというのは、神によって前もって確立された全体の調和(予定調和)が前提されているからである。」(『〈中間者〉の哲学』271頁)


 市川浩の議論は、ライプニッツ華厳経、ブレイクの詩のなかにある「部分は単なる部分ではなく、全体を内蔵する」という考え方をめぐるものだ。
 永井均さんは『なぜ意識は実在しないのか』の中で、「ライプニッツモナド世界や華厳経の世界みたいに、相互の含み込み合いみたいな形で並列的に描いてしまうと、実態から外れてしまう」(改訂版、49頁)と述べている。
 ここで言われる「並列」描写に抗してもちだされるのが、かの「累進構造」で、『〈仏教3.0〉を哲学する』の「鼎談の後に(二)」で「哲学的には最も重要」(277頁)と言われているのがこの「累進構造」である。
(たしか『『〈仏教3.0〉を哲学する』で「平板な世界」と「入れ子になった世界」と言われていたのが、それぞれこの「並列」描写と「累進構造」の対比に対応している。)

 「単独性の《私》」が何度も何度も第三段階の世界(「独在性の〈私〉」の世界)に片足をつっこむのだが、そのたび第二段階の世界へと転落していく。「累進構造」が表現しているのは、そのようなシーシュポス的状況ではないか。
 しかしそれは同時に、三次元世界の住人が、無数のパースペクティヴからの眺望を合成して四次元世界の全体像に迫る漸近線を描くように、「独在性の〈私〉」が第四段階の世界への接近を試みる、そのような一段と次元の高いもう一つのシーシュポス的状況をも表現している。
 そんなことが言えるかもしれない。