人称と時制と様相─永井均が語ったこと(その10)

 「累進構造」にはこれ以上立ち入らない。(『〈仏教3.0〉を哲学する』に登場しないから。)
 が、パースペクティヴの方は、これから始める第三の話題に関係してくると思う。


 『〈仏教3.0〉を哲学する』第二章の最後で、永井均さんはこんなことを語っている。


《実は、内山老師の、第三図で、「コトバが展開した世界」がこうなるというのは、深く読むと非常に素晴らしいことを言っているんです。言葉だとこれになっちゃって、それ以外のあり方は言葉では言えないから、後の第五図も第六図も言葉では言えないとという含意があるんですね。これは本当のことで、この話も言葉では言えないんです。言葉っていうのは、これを言わないために、言わせないために作られたと言えるくらいのものですよ。言葉の根本は、主語と述語で文ができると、それに否定と連言の操作が付け加わって、あとは時制、人称、様相が加えられて、そうやってできるわけだけど、最後の三つは、みんなこれを言わせないためのものですよね。時制がつくと、この〈現在〉の特殊性が言えなくなって、この〈私〉の特殊性を言わせないために人称ができていて、この世界こそが現実世界だと言わせないために様相がある。結局、そういうふうにヤリトリをするためにうまくいくようなものとして言葉はできていて、言葉で普通にヤリトリする時には、この話はできないようになっているんですね。》(172-173頁)


 ここで「言葉では言えない」と言われていることが、前回、「この図はいったい誰が、どの視点から世界を観察して描いたものなのか」云々と書いたこととつながるのだが、このことについてもこれ以上は立ち入らない。
 それにしても、ここで永井均さんが語っていることは面白い。ゾクゾクしてくる。