人称と時制と様相、承前─永井均が語ったこと(その11)

 第三章での永井均さんの関連する発言も引く。
 「人称と時制の方が様相よりも一段と根源的じゃないですか」という藤田一照さんの問いに答えて。


《そうです。様相は後から作ったから、あまりない言語もありますし。しかし、人称と時制は必ずあって、日本語だと未発達だけど、それでも本質的には必ずあるわけで、結局これなしには、言語的世界というか、ロゴス的世界ができ上がらないので、思考もできないし、みんなに通じる話もできないから、基本的に、これはどこでも必ずあるんですね。でも、本当は何かを隠蔽しているというか、踏み越えてできていますよね。言語には〈今〉や〈私〉がないんですよね。時点間で対話をする場合には〈今〉は消えますね。人が誰かと話す時には〈私〉が消えるのと同じ構造ですね。》(216頁)


 第三章の質疑応答での発言。


《〈私〉と〈今〉の関係は、実は複雑というか、ある意味単純で、〈私〉と〈今〉は同じものだ、と考えることもできるんですね。分離自体が、人称と時制という形での分類が生じた時に生じるんで、本来は、〈私〉と〈今〉は同じで、〈私〉とは必然的に〈今〉にあるもんだし、〈今〉というものを考えたら、必ずそこに〈私〉がいますからね。》(257頁)


 また、「「ここ」は、今と私から導き出せるから根源性の度合いからすると、今や私より劣るところがありますね」という藤田一照さんの発言に対して。


《そうですね、こことは、私が今いる場所のことなんですね。だから私と今から出てくる。そういう関係とは違って、今と私の結びつきには微妙なところがあって、必ずしもそういう論理的な繋がりはなくて、仲はいいけど一心同体ではない、というようなところがある。》(259頁)


 人称と時制と様相。私・いま・そして‘ここ’。(パースペクティヴの三つのエレメント?)