世界四段階説、承前─永井均が語ったこと(その8)

 永井均さんが述べていること(精確には、永井均さんが要約している内山老師の議論)を整理する。


◎第一段階、全然切れている世界。リアルな断絶の世界。「私秘性」の世界。言語以前の世界。


◎第二段階、コトバやお金で繋がっている世界。「よしあし、好き嫌い、勝ち敗け、正不正」が入ってくる世界。


◎第三段階、他者と切れている断絶の世界。第一段階の断絶とは次元が異なる「独在性」の世界。
「アタマの展開する世界」の中に入って、その一員として何かヤリトリしている「たんなる人間としての自分」ではない〈私〉の世界。
「体験する自己と体験される世界の区別がないような、独我的=無我的な自己、つまり〈自己=世界〉であるような」──もはや「「自己」という必要もない」──〈私〉の世界。(113頁)


◎第四段階、他者がいなくなった人(〈私〉)たちどうしが繋がる「驚くべき」世界。


 永井均さんの『〈私〉のメタフィジックス』は、「〈私〉の形而上学」と「『私』の倫理学」と「“私”の人間学」の三部で構成されていたが、そのあとがきに、当初の構想では形而上学倫理学のあいだに「「私」の論理学」を設ける四部構成となるはずだったと書かれている。
 この「私」は後に《私》と表記され、「単独性の《私》」として「独在性の〈私〉」と対峙することになる。
 乱暴に括ると、第一段階の世界には「人間(生物)としての“私”」が、第二段階の世界には「利己的な『私』」が住まいし、この「利己的な『私』」が「単独性の《私》」となって第三段階の世界に片足をつっこむ。(本当はつっこめない。)
 「第三段階」の世界の本来の(ただ独りの?)住人は「独在性の〈私〉」で、この「比類なき私」つまり「隣人をもたない私」が「第四段階」の世界に片足をつっこむ。(本当はつっこめないのにつっこむ。だから「驚くべきこと」だと言われる。)
 コトバやお金ではない「何か」を介して繋がる。あるいは、何ものも介さないで繋がる。死者か神か輪廻転生する魂かなにかがそうするように? あるいは文学書や歴史書や宗教書や哲学書を読むたびに何者かと対話するように?


 私が読み得た限り、永井均さんが第四段階の世界のことを主題的かつ明快に論じたのは、『〈私〉の存在の比類なさ』に収められた「他者」論文が最初だったと思う。
 「独在者」つまり「独在性の〈私〉」の複数化の問題。これは『私・今・そして神』以後の「後期・永井哲学」(と言っていいのかどうか)ではどうなっている(いく)のだろう。