世界四段階説─永井均が語ったこと(その7)

 話がすっかり『〈仏教3.0〉を哲学する』から離れていった。「空っぽの〈私〉と歌の器」に続く第二の話題に移る。


 まず、第二章での永井均さんの発言を、前後の文脈抜きにまるごと引く。


《つまり、三段階あるということなんですよ。まず、全然切れている世界。次に、コトバとかお金とかそういうもので繋がっている世界。そこでは勝ち負けとか好き嫌いとかいろいろなものがある。第三番目に、今の、第五図と第六図のような世界ですね。他者と切れていると言っても、第一段階の切れ方と第三段階の切れ方は全然違いますよ。内山さんご自身が語る際にはちょっと混同している面もあるのですが、この違いこそが決定的に重要です。第三段階の独在性は、我々はみな同一のコップを見ていると思っているけどそれぞれに見え方は違っているだろうとか、違っているか同じかそもそも分からないじゃないかとか、そういう私秘性の問題とはそもそも関係ないんです。第三段階の断絶は、そういうリアルな断絶とは、全然違う次元の問題です。》(114頁)


 いったん中断。
 永井均さんがここで話しているのは、「内山さん」つまり内山興正老師が『坐禅の意味と実際』や『進みと安らい──自己の世界』に書いたことで、第五図や第六図(すぐ後で引く文章に登場するカボチャの寓話も含めて)については、Logues さん(?)の「『〈仏教3.0〉を哲学する』第二章の読書ノートとコメント」が詳しい。
 後段へ。


《さて、しかし問題は、それじゃあ、カボチャが蔓で繋がっているあのあり方は、いったいどこから出てくるんだ? ということですね。この三段階のどこにも出てきていないじゃないか。どこからも出てこないんじゃないか、という問題です。それで、これをどう考えたらいいかというと、その考え方は、ここでぐっと推論すると、どうしてもただ一つしかありえなくて、こういうふうに第六図のようになった人たちが、つまりそういう意味ではもはや他者がいなくなった人たちどうしが、その次元で繋がるしかないんですね。第六図のようなあり方で繋がらないとカボチャになれないと、そう推論するしかない。これは、ある意味でたいへん驚くべきことで、カボチャは自然に繋がっているのに、我々はそういうふうに素朴に繋がるためには、第三段階まで行って、さらに次の第四段階まで行かないと、カボチャの蔓のようには繋がれない。ということが、暗に言われているのではないか、というふうにこの全体を読むことができる。》(114頁)


 「驚くべきこと」という永井均のアリア特有のフレーズを確認したところで、次回へ。