台本・演出家・そして演じつつある私─永井均が語ったこと(その6)

 短歌(和歌)と永井哲学の関係をめぐって、以前から気になっていたことの一端を(いわば備忘録として、その素材だけ)書いておく。


 その1.
 永井均さんは『なぜ意識は実在しないのか』の「はじめに」で、哲学書は「台本」で、哲学者=永井は下手くそで拙い(これは謙遜)「役者」だと書いている。
 もちろんそんな乱暴な書き方ではないが。
 何度でも初めて語られる(実演される、立ち上がる)哲学。それが私の永井哲学に対する印象で、これはそっくりそのまま王朝和歌に対する私の印象につながる。
 何度でも初めて詠まれる歌。
 こんな言い方ができるかもしれない。「台本」(文字で書かれた和歌)は「本質」に、「演技」(声に出して詠み上げられる和歌)は「実存」に相当すると。


(渡部泰明さんは『和歌とは何か』で、和歌は言葉でする演技だと書いている。そして、和歌を演技という視点から分析するのは本書が初めてというわけではないとして、尼ヶ崎彬著『日本のレトリック』の名を挙げている。
 3回前に書いた「哥とクオリア/ペルソナと哥」の連載は、尼ヶ崎彬さんの『花鳥の使』と永井均さんの『西田幾多郎』を同時並行的に読み進めていたときに着火したアイデアが起点となった。)


 その2.
 世界は言語による「作り物」だが、それはわれわれにとって不可欠で、かつわれわれにとっての「現実」だ。それは「虚構」なのだが、むしろ虚構を「現実」として作り出し、しかもループするのが言語のはたらきなのだ。
 これもややデフォルメしているが、『なぜ意識は実在しないのか』の「はじめに」に出てくる議論。
 内田樹氏は『レヴィナスと愛の現象学』で次のように書いている。(私は内田氏がいう「現象学者=演出家」を、歌人にして歌論家の藤原定家に見立てている。)


現象学者は「演出家」である。演出家は、「しらけた」まなざしで、俳優の演技や照明や音響や舞台装置をチェックしている。それが「つくりもの」であり、仮象でしかないことを彼は熟知している。だが、舞台を分析的に見ることに逆に「没入」しすぎると、観客が舞台の上で「ほんとうに見ているもの」を見逃す可能性がある。舞台の上には、批判的なまなざしが見落とし、心を奪われた観客だけが幻視する劇的世界があるからだ。だから、すぐれた演出家には、覚めていると同時に没入していることが必要となる。現象学者の仕事はこれに似ている。》(文春文庫『レヴィナスと愛の現象学』118-119頁)


 その3.
 『なぜ意識は実在しないのか』の冒頭にこんな議論が出てくる(岩波現代文庫・改訂版、5頁)。


 私の心は、事例がその一つしかないのだから「私」とだけ言えば、あるいは「心」とだけ言えばじゅうぶんではないか。本当は「これ」としか言えないはずだ。
 それなのにどうして「心」なんて一般的なものがあると、誰もが信じているのか?
 この問いの答えはこの本(講義)の中にある。この講義の内容にというよりはむしろ、それが伝達される、ということの中に。


 乱暴に言えば、永井均さんがここで「心」と呼んでいるものが「歌の心」つまり歌に詠まれた心(「思ひ」もしくは一首の歌の意味)に、「私」が詠歌主体もしくは歌に詠まれた人に相当する。
 「これ」としか言えないもの、一般的なものではない「私の心」は、尼ヶ崎彬さんが『花鳥の使』の定家論で導入した「詠みつつある私」という概念に、あるいは「詠みつつある私」という現象に相当する。
 そして「これ」としか言えないものが「伝達」されることのうちに、千百の歌を編集することで千百の心をひとつに編んでいく王朝和歌の世界がひらかれる。