『誰にもわからない短歌入門』─永井均が語ったこと(その5)

 その2.
 永井均さんのツイッターの記事(2016年9月18日、9月19日)。


  …………………………
ゼミ合宿中に学生の一人に『誰にも分からない短歌入門』をもらったので(といってもお金を払ったから買ったともいえるが)読んでいる。「誰にも分からない」という触れ込みにもかかわらず、よく分かってかつ面白い。ただ、最初の笹井宏之さんの作品が圧倒的に優れていて、ある意味で出鼻をくじかれた。


私は知らなかったが20代で夭逝したが有名な方らしい。「どろみずの泥と水とを選りわけるすきま まばゆい いのち 治癒 ゆめ」という作品で、私がこれまで読んだ短歌の中で最も素晴らしいと私は感じていそうだ。「すきま まばゆい」が天才的で、しかも少なくとも私にはとてもよく分かって嬉しく、その後の「いのち 治癒 ゆめ」には、 ちょっと前に青葉市子さんのことを単なる天才と言ったが、この方が単なる天才でないことが示されていて、正直のところ、ここはちょっと涙なしには読めない。そういえば、感心と感動が共存する詩というものをあまり読んだことがない。


少なくとも私にはとてよく分かるというのは、私はいつもどろみずの泥と水とを選りわけていて、そのすきまこそがまばゆいと感じているから。作者よりずっと軽い意味だが、それゆえ「いのち 治癒 ゆめ」とも。だから、残念ながらというべきか、少なくとも私には、この作品はあまりにも分かりやすい。
  …………………………


 この記事を読み、速攻で『誰にもわからない短歌入門』を入手した。いまも毎日少しずつ読み進めている。本のタイトルや装丁からは想像できないくらい濃密で真摯で鋭い本格的な短歌論であり、作品批評の書だった。
 たとえば、「短歌という器」(鈴木ちはね、36頁)をめぐって、共著者の一人は次のように書いている。


《種村弘は『短歌の友人』(二〇〇七)のなかですべての短歌は「ひとつのもの」が形を変えているだけなのではないかと書いていたけれど、いうなればひとつの「曲」をつかってみんなで替え歌遊びをしているような側面が短歌あるいは定型詩という遊びにはある。短歌を読むときわたしたちはひとつの「曲」を(頭のなかで)口ずさむ。この「曲」「調べ」こそがいま現在、短歌を短歌たらしめる唯一のものとしてわたしたちには機能している。内容面から「短歌らしさ」を言うことはもう難しい。》(三上春海、『誰にもわからない短歌入門』29頁)


折口信夫の議論に通じている。和歌を和歌たらしめる根拠というか実質のようなものを言い当てている。究極の和歌的レトリック「本歌取り」の本質に迫っている。)


 ところで、私は永井均さんが言う「学生の一人」が気になっている。
 それは「文学/哲学/数学クラスタ。師匠は永井均先生。早稲田短歌45号連作30首。Web系/日曜Perlプログラマ。京都出身、赤羽在住 http://tinyurl.com/oftexda」のプロフィールでツイッターを書いている谷口一平という人だろうか。


 鳥籠はむしろ世界を閉ぢこめて丘の僧院のとほきアレルヤ/谷口一平「ヰタ・スペクラリス」『早稲田短歌45号』


 もしそうなら『鼎談の後に(二)』で「オスカー・ベッカーについては、谷口一平くんの修士論文にかなり多くを依拠している」と紹介されていた「谷口一平くん」につながる。
 「永井均が語ったこと」で予定している五つの話題(いま取り上げている「空っぽの〈私〉と歌の器」がその最初の話題)の最後のものにつながる。


     ※


 永井哲学と短歌、番外。
 枡野浩一著『君の鳥は歌を歌える』は、映画化やノベライズと同じ感覚で「ひとさまの作品」を「短歌化」した「前代未聞のレビュー&エッセイ」集。マガジンハウスから出ていた伝説の文芸誌『鳩よ!』に連載されたもの。(「伝説の」は個人的な述懐。)
 永井均さんの『子どものための哲学対話』を「短歌化」したのがこれ。


  左翼とか右翼とかいう対立は
  あなたがたには大事でしょうね