ルーマンとラカン─壊滅的かつ超絶的に難解

 ルーマンがいうオートポイエーシス的社会システムの要素は「コミュニケーション」であって、「行為」や「人間」や「意識」ではない。
 このことをめぐって、もう少し書いておきたいことがある。
 高田明典著『難解な本を読む技術』に、ラカンの「《盗まれた手紙》についてのゼミナール」の冒頭の一節を解読したくだりがある。付録2「代表的難解本ガイド」のラカンの項に出てくるもので、私はこれにすっかり魅了された。
 そして、「ルーマンがいう社会システムの構成要素はコミュニケーションだ」を想起した。
 まず、原典を抜き書きしておく。


《われわれはこれまでの研究によって、反復強迫(Wiederholungszwang)はわれわれが以前に意味表現[シニフィアン]の連鎖の自己主張(l'insistance)と名づけたもののなかに根拠をおいているのを知りました。この観念そのものは、l'ex-sistance(つまり、中心から離れた場所)と相関的な関係にあるものとして明らかにされたわけですが、この場所はまた、フロイトの発見を重視しなければならない場合には無意識の主体をここに位置づける必要があります。知られるとおり、象徴界(le symbolique)が影響力を行使するこの場所の機能が想像界(l'imaginaire)のどのような経路を通って人間という主体のもっとも奥深いところでその力を発揮するようになるか、このことは精神分析によってはじめられた実際経験のなかではじめて理解されるのです。
 このゼミナールで強調してみたい点は、じつはいまの想像界の諸影響は、これらをお互いに結びつけたり方向を与えたりする象徴界の連鎖に持ちこまれる点はさておいて、それらが何らわれわれの経験の本質的な面を表現せずに単にその移ろいやすい部分を伝えるにすぎないという点です。》(『エクリ1』11頁)


 この文章をいきなり読んでも、何が何やらさっぱり解らなかっただろう。
 高田氏がときおり使う語彙でいえば「壊滅的に難解」。内田樹氏が(『他者と死者──ラカンによるレヴィナス』の第1章3節で、ラカンの「分かりにくさ」の実例として「名刺代わり」に引用した箇所で)使った言葉でいえば「超絶的に難解」。
 高田前掲書は、これを次のように解説する(223-232頁)。


第1のセンテンス
 反復強迫とは、「それが辛い記憶や経験であるにもかかわらず、その不幸を繰り返し再現する」という現象である。
 フロイトは「快感原則の彼岸」で反復強迫の概念の重要性を指摘し、かつ問題視した。なぜなら、それは「生命体は、快を求め、苦を遠ざける」という快感原則に反するから。
 フロイトは、反復強迫の原因を「自我欲動」に求めた。
 フロイトがいう自我とは、「ロゴス=記号=言葉」である。つまり、反復強迫は「記号表現の連鎖」が自ら欲動する(自己主張する)ことによって発生する。


第2のセンテンス
 「l'in-sistance」(内発)と「l'ex-sistance」(外発)が「対をなす概念」となっていることに注意。
 まず、反復強迫は自己の内部で発生する「自我欲動」の発現である(内発)。
 その自我欲動は「記号・言語」によって駆動されている。しかし、「記号・言語」は私たちが「外部」から取り入れた(学習した)ものでしかない。
 この「記号・言語=中心から離れた場所」(外発)に無意識の主体が位置づけられる。すなわち、「無意識」は「外部=言語」に存在している。自己の内部に存在しているわけではない。


第3のセンテンス
 想像界とは、私たちが「言語を用いて何かを感じ、何かを思考する世界」のことである。「l'in-sistance」であり「内発」であり「自我衝動」である。
 象徴界とは、「言語の世界」である。「l'ex-sistance」であり「外発」であり「言語」である。それは私たちの「外部」から、私たちに「記号表現の連鎖」や「記号表現の秩序」を打ち込んでくるもののことを指す。
 ラカンが言っているのは、「言語の体系の中に、無意識の主体が位置づけられる必要がある」ということである。
 さらに、「言語体系は、無意識に対して影響力を行使するが、そのとき、言語体系がどのようにして私たちの思考や感情に入り込んで実際の言動として発露されるのかという仕組みに関しては、精神分析の実際経験を通して理解される」ということである。


第4のセンテンス
 想像界の諸影響は、われわれの経験の本質的な面を表現しない。
 想像界の諸影響は、われわれの経験の移ろいやすい部分を伝えるにすぎない。
 想像界の諸影響は、象徴界の連鎖に持ち込まれる。
 想像界の諸影響は、象徴界の連鎖において、お互いに結び付けられたり方向を与えられたりする。


 私はこの読解にすっかり魅了され、そして「オートポイエーシス的社会システムの要素はコミュニケーションであって、行為や人間や意識ではない」を想起したのだった。
 そこには、つまりフロイトラカンの議論とルーマンの議論とのあいだには、何か深い関係があるに違いないと思った。
 それに、高田氏のように、ルーマンの著書を(自分なりに)解読してみたいと思った。