なぜ難解な本を読むのか

 なぜ難解な本を読むのか。「そこに難解な本があるから」というのは、それはそれで一つの答えになる。
 私の場合、未読の哲学系難解本が書棚に山のように「寝かせ」られていて、それらの書物が一斉に「いつ読んでくれるのか」と日々恨めしげに背表紙で訴えかけてくるものだから、鬱陶しくてしかたがない。
 かといって「書庫」に移動し安楽死させようと企んでも、なにしろ敵は不死性をもった言葉で武装しているのだからそうはいかない。
 読まないで読んだことにできる方法はないものか。常々そう思っていたら、高田明典著『難解な本を読む技術』(光文社新書)に、「読書の技術の真骨頂は「読まない」ことにあります」と書いてあった。
 それは、第5章「さらに高度な本読み」に出てくる。「読まない読書」(手にとり眺める読書)の技術マニュアルも示されている。
 まず、目次をしっかり見る。目次の章題・小見出しから(自分にとって)重要な項目を探し出し、その部分をざっと読む。その部分が(自分にとって)意義がある場合、少し周辺を読む。意義がなければ、すぐにやめる。適当にパラパラめくり、指のとまったところを(運にまかせて)読む。以上。
 なんだ、結局のところ(少しは)読まないといけないんじゃないか。でも、それは「生涯の一冊」にめぐりあうための婚活のようなものだと思えばいい。
 それに、この訓練を意識してしっかり積んでいけば、いずれ本の背表紙を眺めるだけで「この本は自分にとって意義がある(ない)」と直感的に分かるようになるのではないかと思う。
 これに続いて「包括読み」の技術が紹介される。
 関心があるテーマを中心に書籍を渉猟する。ただし、読書ノートはとらずに読み捨てる。(実は、この「読書ノート」のとりかたが本書の話題の中心をなす。それは第3章(通読)、第4章(詳細読み)で詳細に述べられる。)
 ここで肝心なのは、できるだけ多くの書籍を手にとり、目にすること。そのためにこそ「読まない」技術が必要になる。
 そして、(読書ノートをとらないかわりに)文献リストを作成する。文献リストは多ければいいというものではない。少なくとも一度は通読するつもりの本に限定する。
 そうして、特定のテーマに関する「地図」をつくっていく。(この「地図をつくる」こと、おおまかな全体像を把握することが、難解本を読むためにかかせない準備作業となる。)
 最後に、地図(文献リスト)にしたがって系統的に読み進めていく。
 この本が素晴らしいのは、こうした方法論、マニュアルをただ示すだけでなく、実際にやってみせていることだ。「読書ノートの記入例」と「代表的難解本ガイド」の二つの付録がそれで、「付録」といいながらほぼ半分くらいの分量があてられている。
 とくにデリダスピノザウィトゲンシュタインソシュールフロイトフーコーラカンドゥルーズ、ナンシー、ジジェクの十人の難解本を紹介したガイドが素晴らしい。ラカンの『エクリ』の解説など、それだけで単独の「ラカン入門」になっている。
 本書を読んで、少し気が楽になり、かなり勇気がわいてきた。そして、(高田氏がラカンについてやってみせたようなかたちで)自分なりの「基本文献リスト」を作成しようと思い立った。(そこでまず、無印良品で新製品のA4版ノート4冊とボールペン3色を買った。形より入れ。) 
 それにしても、なぜ、そこまでして難解な本を読まなければならないのか。
 「わかりやすさ」ばかりが称揚される時代、あるいは「わかったつもり」が横行する世の風潮に流されないため、「わからなさの感覚」をしっかりと身につけることが大切だ。「圧倒的な感動と驚愕の結論」を手にすることができるなら、莫大な時間と労力を費やす価値はあるというものだ。
 その他、気の利いた言い方を本書からいくつか拾うことはできるだろう。でもやっぱり、「そこに難解な本があるから」という答えが一番しっくりくる。
(「わからなさの感覚」はレヴィナスの著書をめぐる記述に出てくる言葉。「圧倒的な感動」云々はスピノザの『エチカ』について使われた言葉。本書から拾ったのはそれらの言葉だけで、先に書いたような「なぜ難解な本を読むのか」という文脈で使われたものではない。だから、先の言い方が「気が利いている」かどうかの責は、書評者が負う。)